1953年4月、16歳の時、「想い出のワルツ」でレコードデビューすると、20万枚を売り上げる大ヒットを記録し、1955年には、「三人娘」である、江利チエミさん、美空ひばりさんと共に出演した映画「ジャンケン娘」が空前の大ヒットとなった、雪村いづみ(ゆきむら いづみ)さんですが、その後、渡米すると、アメリカでも人気を博します。
「雪村いづみが若い頃は「三人娘(美空ひばりと江利チエミ)」で人気!」からの続き
アメリカでも全米縦断公演「ホリデイ・イン・ジャパン」で人気を博す
美空ひばりさん、江利チエミさんと共に「三人娘」と呼ばれるなど、人気絶頂期を迎えていた雪村さんですが、一方、プライベートでは、お母さんが8500万円(現在の貨幣価値では25億円)もの借金を背負ったことから、その返済のため、日本での活動に区切りをつけ、1959年、22歳の時、渡米しているのですが、
ダイナ・ショアの人気番組「The Dinah Shore Chevy Show」に出演すると、ここでも、芸能各紙から絶賛され、翌年の1960年にも、全米縦断公演「ホリデイ・イン・ジャパン」のため再渡米。
すると、初演直後から話題を呼び「ドルを稼げるはじめての日本人歌手」と称賛され、1961年には、一流写真家のロバート・キャパさんが撮影を担当し、日本人の芸能人として、初めて、「LIFE」誌の表紙を飾っているのですが、
雪村さんは、
渡米先での最初のコンサートは、ニューヨークの劇場でした。以来、アメリカでは数えきれないコンサートツアーを行いました。もう、忘れてしまうほど。
お陰様でラスベガスに家を持つことができ、ここにはひばりさんやチエミさんは勿論、沢山のお友達が遊びに来てくれましたね。アメリカでのレッスンやコンサート経験が、現在の私のステージスタイルの基礎を作ってくれました
と、語っています。
「LIFE」(1961年5月8日号)より。
アメリカのTV番組「ビクターボルガー・ショー」に出演する雪村さん。
全米コンサートが実現できたのは米女優・シャーリー・マクレーンのお陰だった
ちなみに、当時、雪村さんは、歌手としてアメリカでコンサートをやった、初めての日本人だったのですが、アメリカに行くことができたのは、女優のシャーリー・マクレーンさんのお陰だったそうで、
マクレーンさんと当時の夫のスティーブ・パーカーさんが大の親日家で、日本を訪れ、雪村さんの家の近くに住んでいて、交流があったのだそうです。
アメリカでのレッスンが今でも役に立っている
ただ、そんな活躍もつかの間、やがて、雪村さんはスター扱いされなくなり、アルバイトをしながらオーディションを受けなければならなかったそうですが、そのためには、まず、自分で先生を探さなけれならなかったそうで、
そんな中、ラスベガスのホテルのラウンジで歌っていると、ジャズ歌手のナンシー・ウイルソンさんのピアニストが、
1日25ドルで3日間レッスンしてみませんか?
と、声をかけてくれたことから、喜んでレッスンを受けることに。
すると、最初は真ん中のCが出るか出ないかだったのが、その3日間のレッスンで上のCまで(1オクターブ上まで)出せるようになり、声の響かせ方がガラッと変わったそうで、
雪村さんは、
教えてもらうこと、プラクティスすることって大切なことですね。だから、そのとき教えてもらったことが今も生きているの。ちゃんと“響き”で歌っていますから。
やっぱり「言葉を正しく言う」「はっきり言う」のが大事だと思っているんです。言葉が、歌詞が通じなければ歌手じゃないと思っていますから。私はしっかりはっきり言い過ぎちゃって、あまりロマンチックではないかもしれないけど(笑)
と、語っています。
佐野元春とコラボレーションアルバム「トーキョー・シック」をリリース
そんな雪村さんは、帰国後の1964年には、ミュージカル映画「君も出世ができる」に出演しているのですが、その後はミュージカルをしつつ、歌手活動を続けると、1970年には、「第1回東京国際歌謡音楽祭」で最優秀歌唱賞を受賞。
さらに1972年には、「第1回東京音楽祭」でグランプリを受賞するなど、その実力を見せつけています。
また、近年は、2006年に、32年ぶりとなる映画「そうかも知れない」に出演するほか、2014年には、佐野元春さんとコラボレーションアルバム「トーキョー・シック」をリリースするなど、精力的に音楽活動を継続しています。
「雪村いづみは昔母親の莫大な借金を一人で完済していた!」に続く
佐野元春さんと雪村さん。