1976年、三菱重工の社員から受け取った内部告発の手紙をもとに、関電美浜原発の隠されたトラブルについて、月刊誌「展望」(筑摩書房)で連載記事「原子力戦争」を書いたところ、国会でも取り上げられ、大きな問題になったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、その後も、「東京12チャンネル」のスポンサーをしていた大手広告代理店「電通」がCR作戦を仕切っていることを暴露すると、ついには、「東京12チャンネル」を退職に追い込まれたといいます。

「田原総一朗が連載した「原子力戦争」は国会で問題になっていた!」からの続き

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大手広告代理店「電通」がCR作戦を仕切っていることを暴露

原子力戦争」のための取材を進める中で、「東京12チャンネル」のスポンサーだった大手広告代理店「電通」が、反原発の住民運動に対抗するCR作戦を仕切っていることを知った田原さんは、この「CR作戦」についても、「原子力戦争」で書いたそうですが・・・

(CR作戦とは、もともとは、公安警察が過激派対策として取り組んだ地域住民に対する広報活動のことで、過激派に対する注意を促すポスターやビラを地域に大量に配布するほか、アパートやマンションの全室で聞き込みをするローラー作戦を展開して、かなりの効果を上げたそうで、「電通」は、この手法を反原発に応用したのだそうです)


原子力戦争

「電通」から圧力がかかり上司から連載を打ち切るように言われるも・・・

「電通」は、

こんな記事を書くディレクターがいるテレビ局のスポンサーはやらない

と、「東京12チャンネル」に圧力をかけてきたそうで、

田原さんは、上司から、

会社は君のために重大な損失を被っている。連載を打ち切ってほしい

と、言われ、

(上司の言葉には、「連載を打ち切るか、会社を辞めるか」という意味を含んでいたそうで、田原さんとしては、会社を辞める気は毛頭なかったことから)

とりあえず、

考えさせてほしい

とだけ言い、態度を保留したそうです。

(上司の部長と局長は、自分の行為を反省・謝罪して将来同じ間違いをしないと誓約する、始末書を提出する譴責(けんせき)処分になったそうです)

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「東京12チャンネル」を退職

しかし、その後、親会社である「日経新聞」から来た社長室長から、

連載をやめるか、会社を辞めるか、早急に選ばないと会社は強硬手段に出ざるを得ない

と、通告されたそうで、

田原さんは、選択肢は一つしかないと、会社を辞める決意。

1976年12月28日、42歳の時、退職届を提出すると、会社からは「退職願にしろ」と言われて書き直し、1977年1月31日付で、「東京12チャンネル」を退職したのだそうです。

ちなみに、田原さんは、「電通」について、著書「塀の上を走れ 田原総一朗自伝」で、

私は電通の強大な力を思い知らされた。そして、マスメディアに凄まじい影響力を持っている電通に、あらためて深い興味を抱いた。

当時、電通は〝築地編成局〟と称され、新聞やテレビを事実上、牛耳っているとされていた。電通の「第九連絡局」は、日本の省庁を取り仕切っているともいわれていた。私は俄然、電通を取材したくなった。

そこで『週刊文春』や『週刊ポスト』に掛け合ったのだが、実現しなかった。ちょうど その時期に朝日新聞社から本を出さないかと依頼されたので、「電通をやりたい」といったら、何とOKになった。

そして『週刊朝日』で連載することになったのだが、結局 毎回、私が電通と交渉して原稿を活字にすることになった。

と、綴っています。

「田原総一朗の出演番組ドラマ映画と監督映画を画像で!」に続く


塀の上を走れ 田原総一朗自伝

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