ドキュメンタリー「あるテレビディレクターの投げた波紋」が、NHKからのクレームで放送中止になったうえ、この事件を嗅ぎつけた朝日新聞社の取材に、事の顛末を答えたところ、大きな記事が出たことで、制作局へと左遷されてしまったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、制作局では、仕事がなかったことから、空き時間を利用して、今度はノンフィクション「原子力戦争」を書き始めたといいます。


「田原総一朗はNHK問題で朝日新聞の取材に答え左遷されていた!」からの続き

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仕事を干されている間に「原子力戦争」を連載

田原さんは、映画制作で作った借金を返すため、雑誌記事を書き始めていたそうですが、仕事を干されると、時間が有り余るようになったことから、本格的に取材してノンフィクションを書いてみようと思いたったそうで、月刊誌「展望」(筑摩書房)で1976年1月号から4回に渡って、「原子力戦争」を連載したそうです。

(何もかも一人で取材して記事を書いたのは、この「原子力戦争」が初めてだったそうです)

「原子力戦争」連載は原子力船「むつ」の放射線漏れのトラブルがきっかけだった

ちなみに、田原さんが、この「原子力戦争」を書くきっかけとなったのは、1974年8月、原子力船「むつ」が、海上で出力上昇試験を行った際、放射線漏れのトラブルを起こし、50日余りに渡って海上を漂流した事件だったそうで、

田原さんは、休暇を取って、原子力船「むつ」の母港だった青森県むつ市や、福井県美浜市の関西電力美浜原発、東京電力の福原原発を訪ねるほか、原発を製造している三菱重工などのメーカーにも取材に行ったそうです。

(原子力発電に批判的な番組を作る際には、批判する側の人たちを中心に取材するのが一般的なところ、田原さんは、原子力を推進している中枢メンバーを取材したそうで、原発に批判的な記事を書いたことで、相当な反発を食らい、結果、ルポルタージュではなく、小説仕立てに変えざるを得なかったそうです)

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「原子力戦争」は国会で大きな問題になっていた

そんな中、三菱重工の社員から、田原さん宛てに一通の内部告発の手紙が来たそうで、田原さんは、「原子力戦争」の連載の中で、関電美浜原発の隠されたトラブルについても書いたそうですが・・・

(田原さんは、その手紙を、知り合いの反原発運動の中心人物・高木仁三郎さんに見せて、本物であることを確認したそうです)

当時の三木武夫首相が、この「原子力戦争」について触れ、「これは小説なのか、ドキュメンタリーなのか、どっちだ」と発言するなど、国会でも大きな問題となったのだそうです。

(トラブル隠しにより、関電の担当課長が処分されたそうです)

「田原総一朗は「電通」のCR作戦を暴露して「東京12チャンネル」を退職していた!」に続く


原子力戦争

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