1980年、現役引退後はチームから離れるつもりだったところ、球団から「ユニフォームを着続けてくれないか」と頼まれ、長年お世話になった恩義から、断れず、助監督を引き受けたという、王貞治(おう さだはる)さんですが、助監督の経験は、監督業にはあまり役に立たなかったといいます。

「王貞治は現役引退と引き換えに助監督に就任させられていた?」からの続き

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現役引退後はチームから離れるつもりだった

王さんは、1981年から1983年まで藤田元司監督のもとで助監督を務めると、藤田監督、牧野茂ヘッドコーチ、王助監督という、「トロイカ体制」で、

1981年には、リーグ優勝を果たし、日本ハムとの日本シリーズでも4勝2敗でV9以来8年ぶり16度目の日本一となり、1982年は、中日にリーグ優勝を許したものの、1983年には、再びリーグ優勝に輝いています。

(※「トロイカ体制」とは、複数の共同指導者により組織を運営する体制のこと)

助監督の3年間はあまり勉強にはならなかった

実は、藤田監督は、この3年間の「トロイカ体制」を、次期監督である王さんの修行期間と考えていたそうで、王さんに帝王学を教え込もうとしていたそうですが、

王さんによると、助監督には、責任がない代わりに権限もなく、藤田監督にたまに意見を求められ、考えを述べるだけだったことから、正直、責任を持って決断をするという経験ができなければ、何も学ばないことと同じだと感じたそうで、あまり勉強にはならなかったそうです。

(監督と助監督では、戦艦の艦長と副艦長、会社の部長と次長と同じくらい、権限がまるで違うそうです)

3年間の助監督生活の中で1度だけ意思決定をしたことがあった

ただ、3年間の助監督生活の中でも、唯一、意思決定にかかわるシーンがあったといいます。

それは、1983年、リーグ優勝を果たし、日本シリーズで西武と対戦した時のこと、王さんが、その時、調子の良かった西本聖投手を推したのに対し、藤田監督は江川卓投手を推したそうですが、藤田監督は王さんの意見を尊重し、西本投手を登板させたのだそうです。

(結果、西本投手は敗れてしまったそうですが、王さんは、藤田監督が気を遣ってくれたのだろうと感じたそうです)

「ON」(王貞治と長嶋茂雄)時代の野球が理想だった

さておき、藤田監督のもとで、優勝(日本一)、2位、優勝、という3年間を助監督として経験した王さんは、いよいよ、1983年11月8日、巨人の第11代目の監督に就任すると、

ファンの人たちが「ここで打ってくれたらなぁ」というところでホームランやタイムリーを打ち、子どもたちを喜ばせた、「ON」(王さんと長嶋さん)時代が理想としてあったことから、

監督就任会見では、

巨人の野球は攻撃的でなければならない

と、語ったのでした。

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何よりも守備が大切だと考えていた

一方で、王さんは、何よりも、守備が大切だと考え、練習の始めには必ずシートノックをさせたほか、移動日の自主練習の時でも、選手が集まれば、投手と内野手の連携プレーを練習させたそうですが、

(巨人のV9時代は、ナイン全員が守備に対する意識が高く、守備の大切さ、面白さを知っていたそうで、V9達成は防御力のたまものだったそうです)

それには、少し不安もあったそうで、著書「もっと遠くへ 私の履歴書」で、

だが、そうした私のやり方は選手の目にどう映っただろう。長嶋さんが監督になった時、選手だった私たちは「どんな野球をするのか」と、気もそぞろだった。

3年の助監督を経ていた私は選手から直接監督になるのとは違ったが、「王さんはどんな野球をするのか」と、目を凝らして見ていた選手には、同じ戸惑いがあったかもしれない。

これは言い訳になるし、ぜいたくだと言われるだろうが、常勝巨人で日の当たるところを歩んできた私は泥にまみれる経験ができなかった。ソフトバンクで私のあとを継いだ秋山幸二前監督が「二軍監督がいい経験になった」と、話していたように、勝ち負けにこだわらず、何でも試せる場でやってみることが必要だった。

と、綴っています。

「王貞治は巨人監督時代55本塁打に迫るバースに4四球して非難されていた!」に続く


もっと遠くへ 私の履歴書

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