1999年には、見事、リーグ優勝を果たし、その後、中日との日本シリーズも制して、ダイエーホークスを日本一に導いた、王貞治(おう さだはる)さんは、特に、4番の小久保裕紀選手には妥協を許さなかったそうですが、小久保選手は、見事、その期待に応えたといいます。
「王貞治は1999年ダイエーホークス監督で初の日本一になっていた!」からの続き
小久保裕紀を低迷中も4番で使い続けていた
1999年、小久保裕紀選手は、7月まで打率1割8分と低迷していたそうで、マスコミには、「小久保を外さない限り優勝できない」と書かれ、小久保選手本人からも、「外してください」と言われたそうですが、
王さんは、小久保選手に、
チームの勝ち負けはどうでもいいから、自分の状態を上げることだけ考えろ
と、言い、受け付けなかったそうです。
(王さんも、現役時代、スランプになったことがあり、つらい気持ちは十分に分かるものの、中心打者は打順を下げてそれでよしというものではなく、もがき苦しみながらも4番を打ち続けることでしか得られないものがある、と考えていたのだそうです)
勝つことや一番になることの喜びを知っている小久保裕紀を信じていた
というのも、小久保さんは、入団2年目の1995年に本塁打王、1997年には打点王のタイトルを取っており、王さんは、勝つことや一番になることの喜びを知っている人間は、絶対へこたれないと確信していたからだそうですが、
実際、小久保選手は、そんな王さんの期待に応えようと、チーム一の練習量をこなし、後半戦には、ついに、本来の力を取り戻し、優勝決定試合でのホームランを含め、ラストスパートで優勝に貢献したのでした。
ちなみに、小久保選手は、後に、
4番から外してくれないのが一番きつかったが、あの体験があったことで、スランプが怖くなくなった
と、語っているのですが、
王さんは、それを聞いて、4番で起用し続けて良かったと思ったそうです。
小久保裕紀も王貞治の信念を理解していた
また、ある時、小久保さんのエラーが原因で敗れた試合があり、王さんは、野球に失策はつきもの、仕方ないと思っていたそうですが、
翌日の新聞に、小久保さんの「自分の力はこんなもの。好きに書いていいよ」という投げやりなコメントが掲載されていたことから、
(小久保さんはエラーのことを幾度も記者から質問され辟易していたそうです)
新聞を広げたまま、監督室に小久保さんを呼び、
こんなことを本当に話したのか
と、問うと、
小久保さんが、
はい
と、言って、認めたため、
いいか、俺たちはファンに夢を売る商売をしているんだ。こんなコメントを見て、ファンはおまえに夢を抱けるか?今後2度とこのような発言はするな
と、叱ったそうですが、
(王さんは、記者とは、毎日顔を突き合わせていれば、お互い人間同士なので行き違いが生じることもあるけれど、記者の向こうにいるファンには投げやりな姿をさらしてはならない、ということを、現役時代からの信念にしており、それを小久保さんに伝えたかったそうです)
小久保さんは、後に、このことについて、
王貞治という人間を師匠として尊敬する要因になった一番の出来事
と、語っています。
また、小久保さんは、
僕がプロで成功した一番の要因は王監督との出会いだと思っています。
とも、語っています。
「王貞治はON対決(長嶋茂雄との2000年日本シリーズ)で2勝先勝していた!」に続く