1980年10月11日、阪神タイガースの監督を辞することを表明するも、10月14日、小津正次郎阪神球団社長との会談後は、態度を保留した、中西太(なかにし ふとし)さんは、10月16日、小津社長と2度目の会談後、監督続投が決定しているのですが、そこには、田中隆造オーナー(阪神電鉄社長)の強い要望があったといいます。

「中西太は阪神球団に監督辞任を引き留められ態度を保留していた!」からの続き

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2度目の会談後に阪神タイガース監督続投が決定

1980年10月16日、中西さんと小津正次郎阪神球団社長の2度目の会談が行われると、

小津社長は、会談後の記者会見で、

不振の責任はすべて私が至らなかったことで、監督の責任ではない。このままでは監督の男が廃(すた)る。いろいろ問題もあるが、もう一度やって男になってほしい―と翻意を促したところ、分かってくれた

と、語っているのですが、

実は、2度目の会談前に、中西さんの続投は既に決まっていたといいます。

(「成績不振の責任を監督が取らない」という意味不明な小津社長の説明に、プレスルームに詰めかけた報道陣の間には、「あの辞任騒動は何やったんや」という白けた空気が漂ったそうです)

田中隆造オーナー(阪神電鉄社長)が待ったをかけていた

実は、中西さんが監督辞任を表明した際、小津社長としては、表面上は引き留めたものの、本音では、中西さんの監督としての力量、資質に疑問を感じ、新監督の人選に入っていたそうですが、

この動きを知った、中西さんと同郷(香川県)の田中隆造オーナー(阪神電鉄社長)が、

彼(中西)一人の責任にするのはおかしい

中西をクビにするのなら君も責任を取りなさい

と、待ったをかけたのだそうです。

これに、小津社長は追い込まれ、不本意ながらも、

(成績)不振の責任をとって辞めるというのなら、私も辞める

と、中西さんを説得すると、

中西さんは辞意を撤回したというのです。

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田中隆造オーナー(阪神電鉄社長)は同郷(香川県)だった

こうして、中西さんの「監督続投」が発表された日、大阪・梅田の阪神電鉄本社前では、記者たちに囲まれた田中オーナーが、会心の笑みを浮かべながら、

本当に良かった。今年はいくら努力しても彼自身のチーム造りができなかったのだから、気の毒だった。これからは完全な中西構想の下でやらせたい

彼とは同じ故郷の人間であり、大変、親近感がある。彼が初めて甲子園に出場した当時からよく知っているんだ。あれだけ傷ついたら見ておれんじゃないか

(小津さんの責任は)当然、ありますよ。責任者ですからね

と、語っているのですが、

中西さんも、

(辞意を撤回した理由について)オーナーの好意が非常なものだったので、断り切れなかった。それに小津社長が責任はすべて社長にあると認めたからだ

と、語っています。

ちなみに、健康上の不安については、

中西さんは、

まぁ、それは何というか・・・。采配を振るうのにもう影響はないよ

と、濁(にご)したそうです。

「中西太は阪神コーチ時代に江本孟紀と取っ組み合いのケンカをしていた!」に続く

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