ロッテ入団3年目の1981年には、早くも首位打者を獲得した、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、入団4年目の1982年にはNPB史上最年少の三冠王、1985年には王貞治選手に次ぐNPB史上2人目の2度目の三冠王、そして、1986年には、NPB史上唯一の3度目の三冠王に輝いています。

「落合博満は入団3年目にして首位打者を獲得していた!」からの続き

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ロッテ入団4年目の1982年には史上最年少の三冠王に輝くも批判が殺到していた

1981年、プロ3年目にして、打率3割2分6厘(33本塁打)で首位打者を獲得した落合さんは、4年目の1982年(28歳)には、なんと、NPB史上最年少で三冠王(打率3割2分5厘、32本塁打、打点99)に輝くのですが、

(南海・野村克也選手の12年目(30歳)、巨人の王貞治選手の15年目(33歳)を上回る早さ)

打率3割2分5厘、32本塁打 打点99という数字に対して、「あんな低い数字では意味がない」と批判が殺到したといいます。

(落合さんは、本塁打争いでは、日本ハムのソレイタ選手と激しい競い合いの末、2本差で振り切っているのですが、ロッテ投手陣がソレイタ選手を敬遠攻めにしており、このことも批判されていました)

ロッテ入団5年目の1983年も首位打者に輝き3年連続首位打者を獲得

そんな落合さんは、

俺は3000安打とか800本塁打とか、できる年齢じゃない。打率4割でも打ってプロ野球の世界に名を残したい

と、翌1983年シーズンは、前人未到のシーズン打率4割を目標に掲げたそうで、オープン戦では打率3割8分8厘と打ちまくるも、いざ、ペナントレースが始まると、6月11日時点で、打率2割6分9厘と低迷。

それでも、夏場からは復調し、最終的には、打率3割3分2厘と、目標の4割には及ばないながら、3年連続首位打者に輝きます。

(本塁打は25本、打点は75)

1984年は無冠に終わっていた

ただ、その翌1984年、落合さんは、打率3割1分4厘、33本塁打、94打点と、素晴らしい成績を残し、圧倒的に強かった阪急と8.5ゲーム差ながらロッテの2位躍進に大きく貢献するのですが、無冠だったことから、契約更新の時には、球団から前年と同じ年俸を提示されたそうで、

ものすごく不愉快な気分になった

と、語っています。

阪急のブーマー選手が三冠王となったことが起爆剤となっていた

ちなみに、この年(1984年)は、阪急の打線の中心だった助っ人ブーマー選手が、打率3割5分5厘、37本塁打、130打点で、外国人選手としてはNPB史上初の三冠王に輝いているのですが、

落合さんは、このブーマー選手の三冠王が起爆剤となったそうで、翌1985年は、「3つ狙う」と、2度目の三冠王を目標に掲げたのだそうです。

1985年には王貞治に次ぐ史上2人目の三冠王に輝いていた

そんな落合さんは、迎えた1985年、ファウルを減らすべく、レフト方向はスライス、ライト方向はフックの回転を打球に加える技術を磨くほか、奥さんに、「太った人のほうが飛ぶんじゃないの」と言われ、体重を増やすと、

打率3割6分7厘、52本塁打、146打点(歴代三冠王の中でも最多)と、圧倒的な(1984年の三冠王のブーマー選手を上回る)成績で、王貞治選手に次ぐNPB史上2人目の2度目の三冠王に輝きます。

(この年は、セ・リーグでも阪神のランディ・バース選手が三冠王に輝いており、セパ両リーグで初めて同時に「三冠王」が誕生しています)

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1986年にはNPB史上唯一となる3度目の三冠王に輝いていた

さらに、1986年には、1984年の三冠王である阪急のブーマー選手、西武の秋山幸二選手との熾烈な争いの結果(打点は秋山選手とわずか1点差)、またしても、落合さんは、三冠王に輝いており、NPB史上唯一の3度目の三冠王を記録したのでした。

(この年も、落合さんは、打率3割6分、50本塁打、打点116で文句なしの三冠王となっているのですが、2年連続50本塁打はプロ野球史上初、出塁率4割8分6厘6毛も、2023年現在パ・リーグ記録です)

「落合博満が中日に移籍した経緯が凄い!」に続く

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