1981年、ロッテ入団3年目にして首位打者を獲得すると、1982年には、NPB史上最年少の三冠王、1983年は、3年連続となる首位打者、1985年には、王貞治選手に次ぐNPB史上2人目の三冠王、1986年には、NPB史上唯一となる3度目の三冠王に輝くなど、抜群の成績を残した、落合博満(おちあい ひろみつ)さんですが、1986年、慕っていた稲尾和久監督が解任されると、ロッテ球団への批判を繰り返して騒動に発展し、松井静郎球団社長との話し合いの末、4対1で中日へのトレードが決定します。
「落合博満は三冠王を3回(NPB唯一)記録していた!」からの続き
1986年シーズン終了後、慕っていた稲尾和久監督が解任され、ロッテ球団へ反発していた
1986年には、NPB史上唯一となる3度目の三冠王に輝いた落合さんですが、その喜びに浸る間もなく、シーズン終了後の10月24日、移籍騒動が勃発(ぼっぱつ)します。
というのも、1986年、ロッテは、4位に終わったことから、稲尾和久監督を解任し、後任監督に有藤通世さんを据えているのですが、
稲尾監督を慕っていた落合さんは、これに対し、11月4日、福岡市内で行われたファンクラブ主催の「落合選手を励ます会」で、
稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要はない
と、発言。
そして、このことが毎日新聞(11月5日付け)で報じられると、落合さんは、同日(11月5日)、平和台球場での日米親善野球の試合前、集まった報道陣に対し、発言の内容を認めたうえ、
稲尾さんの処遇に関しては本当に腹を立てている
と、球団に反発したのでした。
球団批判を繰り返すも松井静郎球団社長と話し合いで和解したかと思われていた
そんな落合さんは、その後も、マスコミに対してフロント批判の言動を繰り返し、スポーツ新聞も連日に渡って、「落合トレード」と書き立てます。
それでも、同年12月12日には、松井静郎球団社長が落合さんを球団事務所に呼んで話し合い、
落合さんは、
これまで新聞などを通じた発言には誤解もあっただろう。ナマの声を聞いてもらった
松井球団社長も、
これまで落合と球団フロントの間に誤解に基づくものや、連絡が不十分なものあった。そのひとつひとつを代表を読んで確認しあった。直接話し合って、意見の一致を見た
と、それぞれ、語り、和解したかと思われたのですが・・・
年俸が日本人選手初の1億円を超えたことがロッテの重荷になって中日へのトレードが決定
同年12月23日には、落合さんは、牛島和彦選手、上川誠二選手、平沼定晴選手、桑田茂選手の4選手との交換トレードで、中日へのトレードが決定。
(当時の球界を代表する強打者による事実上のトレード志願に、球界は騒然となりました)
実は、打率3割6分、50本塁打、116打点で2年連続3度目の三冠王となったばかりの落合さんは、年俸が日本人選手初の1億円を超えることも確実視されており、財政事情が厳しいロッテにとってこの巨額年俸は重荷であり、落合さんの球団批判発言も相まってトレードとなったようです。
移籍先は巨人が有力視されていたが交換選手が噛み合わず、交渉が難航していた
ちなみに、移籍先は、以前から噂のあった巨人が有力視されており、前年オフ、素早く動いて落合さんと交渉したという巨人は、正力亨オーナーも「巨人は待っています」と発言しているのですが、
ロッテが交換相手として主軸打者である原辰徳選手や中畑清選手を要求したのに対し、巨人が松本匡史選手や角三男選手を提示したため、交渉が難航したといいます。
中日・星野仙一監督が落合博満獲得を球団に強く働きかけていた
そんな中、当時、中日の監督に就任したばかりの星野仙一さんが、「オチ(落合さん)を巨人に取られたら10年は優勝できん」と、巨人に落合さんを渡すのを阻止し、落合さんを獲得することを球団に強く働きかけたそうで、
(星野さんは、エースの小松辰雄投手すら放出する勢いだったといいます)
(ロッテが希望した)抑えの切り札だった牛島和彦投手に、正二塁手の上川誠二選手、若手投手の桑田茂選手、平沼定晴選手を合わせた4人の、1対4の大型トレードで、落合さんはロッテから中日へ移籍することになったのでした。
ちなみに、星野監督と並んで会見に臨んだ落合さんは、
男が男に惚れただけ。稲尾監督でできなかった胴上げを星野監督でしたい
と、語っています。
(落合さんは、中日と1億3千万(推定)でサインし、プロ野球で日本人選手初の1億円プレーヤーとなりました)
「落合博満は中日ではリーグ優勝には貢献するも三冠王には届かなかった!」に続く