1973年、高校3年生の夏の甲子園(第55回全国高等学校野球選手権大会)、2回戦の銚子商業高等学校戦で、延長12回裏、土砂降りの雨の影響もあり、一死満塁、カウント2ストライク3ボールという、サヨナラ負けの大ピンチとなると、運命の1球を投げる前に、内野手全員を集め、「真っ直ぐを力いっぱい投げたい」と言い、渾身のストレートを投げて、痛恨の押し出しで、サヨナラ負けとなってしまった、江川卓(えがわ すぐる)さんですが、実は、この夏の甲子園大会の開幕前からすでに疲れており、いつもの江川さんのピッチングではなかったといいます。

作新学院高校時代の江川卓

「江川卓は高校時代最後の1球は渾身のストレートを投げていた!」からの続き

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「第55回全国高等学校野球選手権大会」開幕前からすでに疲れていた

実は、作新学院で江川さんとバッテリーを組んでいた捕手の小倉(現・亀岡)偉民さんは、この夏の甲子園(第55回全国高等学校野球選手権大会)開幕前に甲子園入りした時から、江川さんのボールが高めに浮き気味だったことが気がかりだったそうで、2戦目の銚子商業高等学校戦は、厳しいと予想していたといいます。

というのも、春の甲子園(選抜大会)以降、作新学院野球部は、全国から招待試合に呼ばれ、九州、北陸など、週末になると遠征に出かけていたことから、江川さんは、春から夏にかけて基礎練習ができず、徹底的に鍛えることができないまま、夏を迎えていたそうで、

(月曜日の授業に間に合わせるため、夜行列車で栃木に戻ることもあったそうです)

江川さんも、

あの試合(銚子商戦)が限界だった。僕も野手も本当に疲れていたから

と、語っています。

(実際、江川さんは、銚子商戦での延長12回裏、土砂降りの中での一死満塁の際、あまりに疲れていたため、ずっと二死満塁だと勘違いしていたといいます)

銚子商業高等学校のエース・土屋正勝は江川卓の不調に気づいていた

また、江川さんは、1972年、高校2年生の時、「第25回秋季関東地区大会」で銚子商と対戦した際には、1安打完封(20三振)と寄せ付けていないのですが、

江川さんと息詰まる投手戦を展開した、銚子商の2年生エース・土屋正勝さんによると、第1試合の作新学院と柳川商業高等学校の試合が長引き、次のゲームに出場する銚子商が通路で待たされ、江川さんのピッチングを見ていた際には、どこか痛めているのかと思ったほど調子が悪いと思ったそうで、

作新学院の初戦をバックネットから見ていましたが、江川投手の調子はよくなさそうでした。相手チームは結構バットに当てていた。0点に抑えれば勝てると思いました

と、語っています。

(とはいえ、江川さんは、ここぞという場面では恐ろしく速いボールを投げていたそうですが)

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「怪物・江川フィーバー」によりチームメイトとの間に溝ができていることを気に病んでいた

さらに、作新学院は、誰がホームランを打とうが決勝タイムリーを打とうが、メディアは打った選手ではなく、江川さんを取り囲む、「怪物・江川フィーバー」状態だったことから、いつしか、チームメイトは江川さんと距離を置き、仲間を気遣う江川さんは孤立するようになり、一枚岩と呼ぶには程遠い状態となっていたそうで、

江川さんは、身体的な疲労のほかにも、チームメイトとの間に溝ができていることが心に重くのしかかっていたといいます。

(ただ、この試合の最後の1球を投げる直前、一塁手の鈴木選手が「お前の好きなボールを投げろよ。お前がいたからこそ、俺たちもここまで来れたんじゃないか」と言ってくれたことで、心のしこりがとれたそうで、試合後、山本監督の提案で、京都・奈良を観光した際には、チームのみんなと、終始、和気あいあいとした雰囲気で旅行を楽しむことができたそうです)

「江川卓は阪急からドラ1位指名も慶應大進学を希望し拒否していた!」に続く

作新学院高校時代の江川卓

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