コメディアンのトニー谷さんにスカウトされて、1953年、24歳の時に、日劇ミュージックホールでデビューすると、その後、コント、芝居、司会など、何でもこなす、ハーフのマルチタレントとして人気を博した、E・H・エリックさん。今回は、そんなE・H・エリックさんの生い立ちをご紹介します。

E・H・エリック

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E・H・エリックの年齢は?出身は?学歴は?

E・H・エリックさんは、1929年8月1日生まれ、
フランス・ニースの出身、

学歴は、
青山学院高等部
⇒セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ(インターナショナルスクール)卒業

だそうです。

E・H・エリックの本名は?弟は俳優の岡田眞澄

E・H・エリックさんの本名は、岡田泰美(おかだ たいび)というそうです。

また、弟は、俳優の岡田眞澄(おかだ ますみ)さん、
甥(岡田眞澄さんの長男)は、キャスターでラジオパーソナリティーの岡田眞善(おかだ しんぜん)さん、

お父さんは、画家の岡田穀(おかだ みのる)さん、
お母さんは、デンマーク人翻訳家のインゲボルグ・シーヴァルセンさん、
叔母は、コペンハーゲンの有名な人魚姫像のモデルのリーネ・エリクセンさん、

と、有名人揃いの一族です。

E・H・エリックはハーフ(母親がデンマーク人)

E・H・エリックさんのお母さんのインゲボルグ・シーヴァルセンさんは、デンマーク・コペンハーゲンで、13人兄弟の末っ子として生まれると、20歳の時、コペンハーゲンからフランス・パリにやって来て、カフェでバイトをしながら、バレリーナを目指していたそうです。

(そのカフェでは、画家を目指す若きアーティストたちが集まり、芸術や人生について語り合っていたそうです)

そんな中、そのカフェで、日本人の画家・岡田穀さんと出会うと、二人はたちまち恋に落ち、結婚したそうで、その後、フランス・ニースに移り住むと、長男のE・H・エリックさんが誕生したのだそうです。

(1935年に弟の岡田眞澄さんが誕生した後は、一家でニース郊外のラ・ゴードという所に移り住んだそうです)

E・H・エリックの少年時代は戦争の影響でフランス・ニースから台湾に移り住んでいた

こうして、E・H・エリックさんは、日本人画家のお父さんとデンマーク人のお母さんのもと、2人兄弟の長男として、フランス・ニースで誕生すると、

やがて、第二次世界大戦が始まり、E・H・エリックさん一家は、台湾の親戚を頼って、手荷物一つ持って移り住んだそうですが、

移り住んだ台湾では、西洋人である母・インゲボルグさんは、スパイ扱いされ、憲兵隊に外出を禁じられるなど、厳しい待遇を受けたそうです。

そんな中でも、E・H・エリックさんは、お母さんには、いつも、

エレガントに生きなさい

と、言われて育ったのだそうです。

E・H・エリックの母親は在日米軍の施設で住み込みで翻訳家として働き一家を支えていた

そして、ようやく戦争が終わると、E・H・エリックさん一家は日本へ帰国したそうですが、お父さんに仕事が見つからず、焼け野原となった東京の街を転々とする厳しい生活を送ったそうです。

ただ、やがて、お母さんが、現在の「日本青年館」にあったという在日米軍の施設で翻訳家として採用されたそうで、お母さんが住み込みで働き、一家の生活を支えたのだそうです。

(家族の同居は許されなかったそうです)

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E・H・エリックは幼少期はフランス語で話し、少年時代に日本語と映画を話せるようになっていた

そんな中、E・H・エリックさんは、お母さんの教育方針で、弟の岡田眞澄さんとともに、青山学院高等部から横浜のインターナショナルスクールに編入させられたそうで、

これからは英語ぐらい出来なければいけません

と、英語を勉強させられたのだそうです。

(E・H・エリックさん一家は、ずっとフランス語で会話していたそうで、日本帰国に伴い、E・H・エリックさんは日本語を覚え、「流暢な江戸弁」を話すようになったそうですが、その頃は、まだ英語は話せなかったそうです)

「E・H・エリックが若い頃は「ヘンな外人」で大ブレイクしていた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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