「世界一美しい」と称されたスイングを武器に、プロ生活45年間で日本ゴルフツアー通算48勝、賞金王4回のほか、海外メジャー4大会(マスターズ、全米オープン、全英オープン、全米プロ)の全てでトップ10入りした、中嶋常幸(なかじま つねゆき)さん。

今回は、そんな中嶋常幸さんの生い立ち(幼少期から高校時代まで)を時系列で追っていきます。

中学時代の中嶋常幸

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中嶋常幸のプロフィール

中嶋常幸さんは、1954年10月20日生まれ、
群馬県の出身、

身長180センチ、
体重80キロ、

血液型はO型、

本名は、「中島常幸(読み方同じ)」で、「中嶋常幸」はプロの登録名、

学歴は、
樹徳高等学校中退

趣味は、ストレッチ、スキー、写真、読書だそうです。

中嶋常幸の幼少期は活発な子供だった

中嶋常幸さんは、父・巌さんと母・ナミ子さんの間に、5人きょうだいの長男(弟3人、妹1人)として生まれると、小学生の低学年の頃には、両親から勉強するよう言われることがなかったことから、川に潜って魚をとったり、山では木登りをしたりして、自然の中で四六時中遊んでいたそうで、

成績が良かったのは体育だけで、いつも通信簿には、

授業中落ち着きがない

と、書かれていたそうです。

中嶋常幸の幼少期と両親
幼少期の中嶋常幸さんと両親。

中嶋常幸は小学4年生の時に遊びでゴルフを始めていた

そんな中、ゴルフのトップアマチュアだった、父・巌さんが、ボールが自動的に出る練習器具まで自作しながら、自宅の庭先でネットを張ってゴルフの練習をしているのを見ていた中嶋常幸さんは、

小学4年生の時、お父さんが留守の間に、こっそり、3番アイアンでボールを打ってみたそうですが、

いつの間にか、お父さんが帰宅していて、

やってみるか

と、言われ、

すぐさま、

やる

と、言ったのだそうです。

中嶋常幸は中学2年の時「小川宏ショー」で「天才少年」として紹介されていた

こうして、お父さんに、グリップ、アドレス、スイングなどを教わった中嶋常幸さんは、楽しくてたまらず、すぐゴルフに夢中になったそうで、

やがては、お父さんに連れられて、ゴルフ場でコースデビューも果たすと、車での帰り道には、お父さんと、「もっと上手くなるには、どうすればいいか」を話し合うなど、楽しい時間を過ごしたのだそうです。

そして、中学入学後は、自主的に、登校前と帰宅後(16:00から22:00頃まで)にゴルフの練習をするようになり、授業中も、教科書を読むふりをしながら、ゴルフ雑誌を見ていたそうで、

その甲斐あって、中学2年生の時には、パブリックコース(高崎カントリークラブ)でクラブチャンピオンになったそうで、

当時の人気テレビ番組「小川宏ショー」に、「天才少年」として紹介されたのだそうです。

中学2年生の時の中嶋常幸
高崎カントリークラブでクラブチャンピオンになった時の中嶋常幸さん。

中嶋常幸は中学3年生の「全日本ジュニア選手権」以降、父親からスパルタ指導を受けるようになっていた

そんな中嶋常幸さんは、中学3年生の時には、「全日本ジュニア選手権」(中1から高3までが同じティーからプレーしたそうです)に出場し、7位(中学生の中ではトップ)となり、喜んだそうですが・・・

お父さんの顔を見ると全く喜んでおらず、帰りの車の中では、

来年、優勝するにはどうすればいいか

という、話しばかりされたそうで、

この時を境に、お父さんとの和気あいあいの楽しいゴルフは終わり、お父さんは、鉄拳制裁が日常茶飯事の”鬼軍曹(おにぐんそう)”に豹変(ひょうへん)したのだそうです。

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中嶋常幸は高校を中退して父親のゴルフ英才教育を受けていた

そんな中、高校に進学した中嶋常幸さんは、自分でももっと練習がしたかったことから、自らお父さんに願い出て、高校を中退したそうですが、

やがて、試合での成績が思わしくないと、お父さんには、裏山の坂道を何時間もタイヤ引き(トラックのタイヤにロープをつけて両肩で引っ張ったそうです)させられるほか、

口ごたえなんてもってのほか。すべて言いなりだった

と、練習は厳しくなり、

庭先のネット内(「鳥かご」と呼んでいたそうです)での練習も、8時間から12時間に増えたそうで、学校という”逃げ場”がなくなった中嶋常幸さんは、高校を中退したことをすぐに後悔したのだそうです。

(お父さんには、「鳥かご」のネットの上にホースを回してシャワーで水をまき、雨の中のプレーを想定してボールを打てるよう、「人工・雨降らし機」というものも作られ、練習させられたそうです)

「【画像】中嶋常幸の若い頃は?現在までの経歴を時系列でまとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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