1964年、「狼少年ケン」でアニメデビューすると、以降、「ドラえもん」のジャイアン、「はじめ人間ギャートルズ」のドテチン、タイムボカンシリーズ「ヤッターマン」のトンズラなど、数多くのアニメ作品で個性的な脇役を務め、人気を博した、たてかべ和也(たてかべ かずや)さん。

そんなたてかべ和也さんは、小学・中学時代は野球に夢中だったそうですが、高校生の時、人手が足りないからと頼まれて出演した演劇部の公演で好評を博したことがきっかけで、俳優を目指すようになったそうで、

大学進学後は、一旦、プロデューサーを目指すも、大学卒業後は、小林清志さんに誘われ、「劇団泉座」に所属し、俳優として活動するかたわら、外国映画の吹き替えなど、声の仕事をするようになったといいます。

今回は、たてかべ和也さんの、生い立ち(幼少期)から、外国映画の吹き替え時代までをご紹介します。

たてかべ和也

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たてかべ和也のプロフィール

たてかべ和也さんは、1934年7月25日生まれ、
北海道虻田郡喜茂別町の出身、
東京都世田谷区下北沢育ち

身長168センチ、
体重64キロ、

血液型はA型、

学歴は、
東京都世田谷区立代沢国民学校(現・世田谷区立代沢小学校)
⇒東京教育大学附属駒場中学校(現・筑波大学附属駒場中学校・高等学校)
⇒日本大学芸術学部演劇学科卒業

趣味は、野球観戦(阪神タイガースの大ファン)、読書、

ちなみに、本名は、「立壁和也」(読み方同じ)で、1977年までは本名で活動していたそうですが、「タイムボカンシリーズ」への出演をきっかけに、子供にも分かりやすい「たてかべ和也」に改名したそうです。

たてかべ和也は幼少期にイジメられていた

たてかべ和也さんは、胆振縦貫鉄道(いぶりじゅうかんてつどう)に勤めていたお父さんのもと、北海道虻田郡喜茂別町で一人っ子として誕生したそうですが、

お父さんが、身体が弱く仕事を続けられなくなったことから、1942年、たてかべ和也さんが小学2年生の時に、一家は東京都世田谷区下北沢に転居したそうです。

ちなみに、たてかべ和也さんは、言葉に北海道訛(なま)りがあったことから、イジメられたそうで、少年時代は、ジャイアンというよりも、のび太のようなタイプだったそうです。

たてかべ和也は小学4年生の時に疎開先で毎晩おねしょをするようになっていた

また、たてかべ和也さんは、太平洋戦争の戦局が厳しくなった小学4年生の時、長野県松本市北東部にある浅間温泉に疎開し、その後、長野県塩尻市洗馬に疎開先を移ったそうですが、

この頃には、毎晩、おねしょをするようになり、それは終戦の前後6ヶ月間続いたそうです。

たてかべ和也は小・中学生の頃は野球に夢中になっていた

終戦後、たてかべ和也さんは、東京の実家に戻ると、野球に熱中するようになったそうで、中学校に進学後も、変わらず、夢中になって野球をやっていたそうです。

(東京に戻った途端、おねしょは止まったそうです)

たてかべ和也は高校生の時に頼まれて演劇部の公演に参加すると観客から好評を博していた

また、たてかべ和也さんは、高校生の時には、人手が足りないからと頼まれ、演劇部の公演「アルト・ハイデルベルク」のユトナー博士役で出演したそうですが、

観客から大好評だったことから、

俺、ひょっとしたら俳優の素質があるのかも……

芝居っておもしろいな

と、少し思ったそうですが、

縛られることが嫌いだったため、演劇部には入らなかったそうです。

たてかべ和也は高校時代に劇団民藝や文学座などのお芝居を観て感銘を受け俳優を志すようになった

とはいえ、たてかべ和也さんは、お芝居に興味を持ち、劇団民藝の「五稜郭血書」「炎の人」、文学座の「華々しき一族」など、毎週のように東京中のお芝居を観て歩くようになったそうで、

どれを観ても、ただただ、感銘を受けたそうで、

己の生きる道はこれしかない

と、思うようになったのだそうです。

たてかべ和也は高校卒業後は日本大学芸術学部演劇学科に進学していた

そんなたてかべ和也さんは、高校卒業後は、すぐにでもプロの劇団に飛び込み、研究生にしてもらおうと考えていたそうですが、

両親に言い出せなかったことや、一人っ子だったことから、サラリーマンになって、将来は両親の面倒を見たいと思う気持ちもあったことから、大学進学を選択し、日本大学芸術学部演劇学科に進学したそうです。

たてかべ和也は大学在学中は制作の勉強に力を入れていた

ただ、大学在学中は、勉強せず、「どん底」などの演劇公演に参加していたそうで、この頃、プロデュースの仕事に興味を持ち始め、しばらくは、制作の勉強に力を入れていたそうです。

たてかべ和也は大学卒業後は日本テレビの大道具係として勤務するかたわら「劇団演劇座」を結成していた

そして、大学卒業後は、テレビプロデューサーを目指し、北海道から九州まで、数々の放送会社の就職試験を受けたそうですが・・・

どれも不合格だったそうで、日本テレビの大道具係として働き始めたのだそうです。

また、大学時代の同級生だった田中康郎さんと「劇団演劇座」を結成し、「毒薬と老嬢」を公演したそうです。

たてかべ和也は20代前半の頃「劇団泉座」に誘われて入団していた

すると、そんな中、大学時代の同級生の小林清志さんから「俺たちの劇団に来ないか」と誘われ、「劇団泉座」に入団したそうですが、

「劇団泉座」は中華人民共和国の芝居が多く、イデオロギー(思想、信条)優先のものがほとんとで、「毛沢東語録」を読んで勉強するような、面白くない芝居ばかりやっていたそうで、

「やらないか」と誘われたことから、「じゃあやってみるか」ぐらいの軽い気持ちで舞台に出演していたそうです。

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たてかべ和也は20代前半の頃に外国映画の吹き替えに参加していた

また、たてかべ和也さんは、俳優時代には、外国映画の吹き替えにも参加するようになり、声優としての活動も始めたそうですが、当初は、ギャラが高いという理由で、オファーを受けていたのだそうです。

(そのため、外国映画の吹き替えデビュー作品は覚えていないそうです)

「【画像】たてかべ和也の若い頃はジャイアンやトンズラー!デビューからの経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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