1946年、「浦島太郎の後裔」で映画デビューすると、以降、徹底して、「小狡(ずる)い嫌な奴」等の憎まれ役を演じてきた、金子信雄(かねこ のぶお)さん。
そんな金子信雄さんは、小学1年生の時から20歳まで結核を患い、おまけに、偏食家で、病弱だったそうですが、友人の付き添いで「文学座」を訪れたことがきっかけで、1943年、20歳の時、「文学座」に入座したといいます。
今回は、金子信雄さんの、生い立ち(幼少期から文学座入座まで)をご紹介します。
金子信雄のプロフィール
金子信雄さんは、1923年3月27日生まれ、
東京市下谷区(現・東京都台東区谷中)出身の出身、
血液型はB型、
学歴は、
京華学園
⇒東京音楽学校
趣味は、読書、料理、野球、
ちなみに、「金子信雄」は本名で、愛称は「ネコちゃん」だそうです。
(愛称の「ネコちゃん」は、「文学座」で先輩たちから「金子(かねこ)」にちなんで名付けられたそうです)
金子信雄は小学1年生から20歳まで結核を患っていた
金子信雄さんは、歯科医のお父さんのもと誕生すると、小学校1年の時から結核を患い、20歳まで闘病生活を送っていたそうで、
家族からも、
どうせ信雄は20歳までには死ぬだろう
と、思われていたといいます。
また、偏食家だったため、虚弱体質でとても痩せていたそうです。
(刺身、鳥、牛、寿司、鰻丼、親子丼も嫌いだったそうです)
金子信雄は20歳の時に「文学座」に入座
そんな金子信雄さんは、永井荷風に憧れる病弱な文学青年で、もともと、役者に興味はなかったそうですが、
劇作家の久保田万太郎さん直筆の推薦状を持った友人の付き添いで「文学座」を訪れたことをきっかけに、1943年、20歳の時、「文学座」に入座すると、
入座当初から、先輩の美男子俳優だった森雅之さんから、
俺に似ている奴が入ってきた
と、かわいがられたほか、
「文学座」創立者の杉村春子さんら、ほかの先輩たちからも目をかけられたそうです。
というのも、劇団の旅公演では、料理上手な金子信雄さんが腕を振るっていたからで、
杉村春子さんには、
ネコちゃん(金子信雄さんの愛称)といると食いっぱぐれない
と、言われ、重宝されたのだそうです。
ちなみに、金子信雄さんは、公演に旅立つ際には、通常なら行李(籐などを編んでつくられた旅行用の荷物入れ)1つの荷物でいいところを2つも3つも抱えていたそうですが、これは、各地の闇市で仕入れた食材を劇団で振る舞うためだったほか、東京の商品を地方で高く売り、逆に、地方の食料品を東京で高く売ったりして稼ぐためだったといいます。
金子信雄は22歳の時に文学座の劇団疎開に帯同し疎開先の石川県で終戦を迎えていた
そんな中、召集令状が届き、金子信雄さんは戦地(太平洋戦争)に赴いたそうですが、病弱を理由に召集解除されたそうで、20日くらいで戻ってきたそうです。
また、その後、東京大空襲で自宅が焼失したことから、「文学座」の劇団疎開(石川県小松市)に帯同したそうで、そこで終戦を迎えたのだそうです。
「【画像】金子信雄の若い頃は?デビューからの経歴を時系列まとめ!」に続く
1950年代は、主人公のいけ好かない恋敵や軽薄な男の役、1960年代は、日活映画で石原裕次郎さんや小林旭さんら銀幕のスターの敵役、1973年には、映画「仁義なき戦い」で、小狡(ずる)くセコい山守親分役を演じて映画ファンを …