宝塚歌劇団在団中の1940年、宝塚映画「瞼の戦場」の主演で映画デビューすると、1942年には、主演を務めた大映映画「新雪」が大ヒットを記録し、以降、大映、松竹、日活で100本以上の映画に出演し、その後、フリーとなった、月丘夢路(つきおか ゆめじ)さん。
そんな月丘夢路さんは、県立広島高等女学校に入学したご褒美として東京に連れて行ってもらい、宝塚や松竹の少女歌劇団を観たそうですが、これをきっかけに宝塚少女歌劇団に入団すると、そのエキゾチックな美貌で、たちまち、娘役スターとして活躍しました。
今回は、月丘夢路さんの生い立ち(幼少期~宝塚少女歌劇団時代~宝塚歌劇団時代)をご紹介します。
月丘夢路のプロフィール
月丘夢路さんは、1921年10月14日生まれ、
広島県広島市大手町(現:中区大手町)の出身、
学歴は、
袋町尋常小学校
⇒県立広島高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)中退
⇒宝塚音楽歌劇学校卒業
ちなみに、本名は、「井上明子」(いのうえ あきこ)(旧姓は旭爪明子(ひのつめ あきこ))です。
月丘夢路の幼少期は裕福な家庭で育ち、小学生の時は学芸会でお姫様の役が必ず回ってきていた
月丘夢路さんは、広島市大手町で薬問屋(薬局)を営む両親のもと、5人きょうだい(二男三女)の長女として誕生すると、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうで、小学生の時の学芸会では、お姫様の役が必ず回ってきたそうです。
少女時代の月丘夢路さん。
月丘夢路は高校進学後に「宝塚少女歌劇団」に入団することを決意していた
そんな月丘夢路さんは、県立広島高等女学校に進学しているのですが、当時は、女学校に入ることが困難な時代で、女学校に入学することができたご褒美として、両親に東京に連れて行ってもらったそうで、
その際、宝塚少女歌劇団の小夜福子さんや、松竹少女歌劇団の水の江瀧子さんのステージを観て感激し、宝塚少女歌劇団に入団することを決意したそうです。
(初めて見る色鮮やかな舞台に、すっかり魅了されたのだそうです)
月丘夢路は17歳の時に「宝塚花物語」で初舞台を踏むとその後娘役トップスターとして活躍
ただ、両親からは猛反対されたそうですが、それでも、なんとか両親を説得して、入学したばかりの県立広島高等女学校を中退すると、
1937年、15歳の時、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学し、1939年、17歳の時には、「宝塚少女歌劇団」(現在の宝塚歌劇団)の生徒として、「宝塚花物語」で初舞台を踏むと、そのエキゾチックな美貌で、たちまち人気を博し、
以降、
- 1940年「太平洋」
- 1940年「銃後の合唱」
- 1941年「楽しき隣組」
- 1941年「大空の母」
- 1942年「軍艦旗」
- 1942年「ピノチオ」
などの舞台で、轟夕起子さんや小夜福子さんの後を継ぐ娘役トップスターとして活躍したのでした。
月丘夢路は19歳と20歳の時に宝塚映画「瞼の戦場」「南十字星」で主演
また、月丘夢路さんは、宝塚歌劇団の舞台と並行し、1940年、19歳の時には、宝塚映画「瞼の戦場」の主演で映画デビューすると、1941年、20歳の時には、「南十字星」でも主演を務めています。
月丘夢路は21歳の時に主演映画「新雪」が大ヒット
そして、1942年、21歳の時には、水島道太郎さんとダブル主演を務めた映画「新雪」が大ヒットを記録しているのですが、
実は、藤沢恒夫さんの新聞連載小説「新雪」を映画化するにあたり、1942年に、長年在籍していた松竹から大映に移ってきた五所平之助監督が、心機一転し、ヒロインに月丘夢路さんを起用したのだそうです。
「新雪」より。
(灰田勝彦さんが歌う同名の主題歌「新雪」も大ヒットしています)
ちなみに、批評家たちは、月丘夢路さんの演技について、
月丘夢路の演技がしっかりしているのに驚いた。将来いい女優になる素質を十分に持っていると思う
と、高く評価したといいます。
「新雪」より。
1937年に宝塚音楽学校に入学し、1939年「宝塚花物語」で初舞台を踏まれると、その美貌からたちまち娘役スターとなられた、月丘夢路(つきおか ゆめじ)さん。宝塚歌劇団退団後は、映画女優に転身し、大映、松竹、日活で看板女優 …