1969年、テレビドラマ「あゝ忠臣蔵」で俳優デビューすると、1970年には、「キイハンター」で人気を博し、その後も、「仮面ライダーV3」「秘密戦隊ゴレンジャー」「快傑ズバット」などの戦隊ものでヒーローを務め、アクション俳優として活躍した、宮内洋(みやうち ひろし)さん。
そんな宮内洋さんは、幼い頃から俳優に憧れると、中学を卒業する時に、お父さんが俳優の丹波哲郎さんの育ての親と知り合いだった縁で、丹波哲郎さんに弟子入りを願い出るも、高校に進学するように勧められ、高校生活が終わろうとする頃、再び、弟子入りを願い出るも、今度は、大学に進学するように言われ、大学に進学したそうで、
20歳の時、大学卒業と同じタイミングで、「東映ニューフェイス」のオーディションを受けると、見事、合格し、東映に入所したといいます。
今回は、そんな宮内洋さんの、生い立ち(幼少期から「東映ニューフェイス」合格まで)をご紹介します。
宮内洋のプロフィール
宮内洋さんは、1947年6月14日生まれ、
東京都杉並区の出身(千葉県銚子市育ち)
身長179センチ、
血液型はB型、
学歴は、
日本大学商学部経営学科卒業
趣味は、ゴルフ、
特技は、空手(三段)、柔道(初段)、剣道(三級)、料理、乗馬、スキューバダイビング、
ちなみに、宮内洋は本名です。
宮内洋は幼い頃に「鞍馬天狗」で映画館の観客が拍手喝采するのを見て俳優に憧れるようになっていた
宮内洋さんは、幼い頃、映画館で嵐寛寿郎さん主演の映画「鞍馬天狗」を観ていた際、杉作(松島トモ子さん)が水牢に閉じ込められ、水がどんどん溜まっていく中、危機一髪で颯爽(さっそう)と白馬にまたがった鞍馬天狗が登場し、観客が拍手喝采となったのを見て、俳優に憧れるようになったそうです。
また、幼い頃から、
なんとなく自分は俳優に向いているな
と、思っていたそうです。
(後に、宮内洋さんが出演した「仮面ライダーV3」「秘密戦隊ゴレンジャー」「快傑ズバット」の殺陣師・高橋一俊さんは、偶然にも嵐寛寿郎さんのお弟子さんだったそうで、宮内洋さんは、高橋一俊さんから殺陣を教わったそうです)
「鞍馬天狗」より。嵐寛寿郎さんと松島トモ子さん。
宮内洋は中学卒業時に丹波哲郎に弟子入りを志願するも高校に行くよう言われていた
そんな宮内洋さんは、中学を卒業する時、お父さんが俳優の丹波哲郎さんの育ての親と知り合いだった縁で、弟子入りしようと、丹波哲郎さんのもとを訪ねたそうですが、
丹波哲郎さんからは、「まだ上があるだろ」と、高校に行くように言われたことから、その助言に従い、高校に進学したそうです。
宮内洋は高校卒業時にも丹波哲郎に弟子入りを志願するも大学に進学するよう言われていた
そして、高校卒業間際の3年後、再び、丹波哲郎さんのもとを訪ねたそうですが、この時もまた、「もっと上があるだろ」と、大学に進学するように言われたそうで、芸術学部や映画学科などのある大学に行けばいいのかと尋ねると、
丹波哲郎さんには、
そうではなく、役者をやって、もしダメだったことを考えて、世間様と会話ができるようになっておくべきだ
と、言われたそうで、
宮内洋さんは、芸能とは関係のない、日本大学の商学部に進学したのだそうです。
宮内洋は20歳の時に「東映ニューフェイス」に合格していた
その後、宮内洋さんは、1968年、20歳の時、大学卒業と同じタイミングで、「東映ニューフェイス」のオーディションを受けると、見事、合格したそうですが、
東映の現場では、ずっと、名前を呼ばれることはなく、スタッフにも大部屋の人たちにも、
おい、ニューフェイス
と、呼ばれていたといいます。
ただ、この「ニューフェイス」時代に、わらじの履き方や、刀の抜き方や持ち方などを、大部屋さんや剣友会の方たちに教わったそうで、とても勉強になったそうです。
宮内洋は20歳の時にアクション俳優でやっていこうと決意していた
そんな宮内洋さんは、中学生の時から、柔道と剣道をやっており、高校に入ってからは空手も習うなど、体を動かすことが好きだったそうですが、
声はハスキーで聞き取りづらく、俳優としては不利だったことから、アクションでやっていこうと決めたのだそうです。
「【画像】宮内洋の若い頃は仮面ライダー!デビューから現在までの出演作品や経歴を時系列まとめ!」に続く
1968年、20歳の時、「東映ニューフェイス」のオーディションを受けると、見事、合格し、1969年には、テレビドラマ「あゝ忠臣蔵」でデビューし、1973年には、特撮テレビドラマ「仮面ライダーV3」の主人公・風見志郎/仮面 …