インドネシアのスカルノ元大統領の第3夫人で、現在はタレントとして活躍しているデヴィ夫人ですが、幼少期はとても貧しかったといいます。
そんなデヴィ夫人は、貧困から抜け出すため、15歳の時に女優になろうと決意し、「東芸プロダクション」に研究生として入団すると、映画のエキストラをするかたわら、様々なアルバイトを掛け持ちして働いていたそうで、
そんな中、アメリカ人宝石商のジェイムズ・ベイカーさんと知り合い、赤坂の超高級ナイトクラブ「コパカバーナ」でホステスとして働くようになると、持ち前の美貌で、たちまち、”プリンセス”と呼ばれる人気者になったといいます。
今回は、デヴィ夫人の、生い立ち(幼少期から高級ナイトクラブ「コパカバーナ」のホステス時代まで)をご紹介します。
デヴィ夫人のプロフィール
デヴィ夫人は、1940年2月6日生まれ、
東京府東京市麻布区霞町(現:東京都港区西麻布)の出身、
身長159センチ、
血液型はA型、
学歴は、
東京都港区立高陵中学校
⇒東京都立三田高等学校定時制部中退
趣味は、絵画、日舞、
特技は、水泳、
本名(インドネシア名)は、ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)
(「宝石 聖なる女神」という意味だそうです)
旧名・日本名は、根本 七保子(ねもと なおこ)、
ちなみに、デヴィ夫人は、目鼻立ちがはっきりしていることから、「ハーフ」との噂がありますが、デヴィ夫人のお父さんは大工の棟梁の兵七郎さん、お母さんは政子さんで、共に日本人のため、デヴィ夫人は純日本人でハーフではありません。
デヴィ夫人の両親。
デヴィ夫人が幼い頃は貧しい家庭で育っていた
デヴィ夫人は、大工の棟梁だったお父さんの兵七郎さんと、足が不自由だったものの美人で評判だったお母さんの政子さんのもと、2人きょうだい(弟1人)の長女として誕生したそうですが、
お父さんは、お人好しで、お金をもらわずに家を建てていたことから、家庭は貧しく、食べる物がなかったそうで、デヴィ夫人は、線路のところに生えている食べられそうな草を家に持って帰り、具材にしていたそうです。
また、お母さんは、近所の人の着物を縫ったり、薪(まき)を割ったりと、さまざまな内職をして、家計を支えていたそうです。
デヴィ夫人は15歳の時にエキストラとしてテレビや映画に出演し、お金を稼ぐようになっていた
そんな中、デヴィ夫人は、1955年、15歳の時、いつもお金を工面することに困っていたお母さんを楽にさせてあげたい、と女優になる決意をし、「東芸プロダクション」に研究生として入団すると、
演技や舞踊などを習い始め、エキストラとしてテレビや映画に出演し、お金を稼ぐようになったそうです。
デヴィ夫人は中学卒業後は定時制高校に通いながら「千代田生命保険会社」に就職するほかアルバイトを掛け持ちして家計を支えていた
また、デヴィ夫人は、中学卒業後は、定時制高校に進学したそうですが、エキストラだけでは満足な収入が得られなかったため、「千代田生命保険会社」(現・ジブラルタ生命保険)に入社したそうですが、
(「千代田生命保険会社」の入社試験では、応募者450人中、合格者3名のうちの1人に選ばれ、採用されたそうです)
「千代田生命保険会社」入社後も、お昼休みの1時間は会社の近くの喫茶店でアルバイト、土日もコーヒーショップでアルバイトをして、貧しい家計を支えたのだそうです。
1957年、「東芸プロダクション」時代のデヴィ夫人(17歳)。
デヴィ夫人は16歳の時に父親が他界し、ますます様々な仕事を掛け持ちして働くようになっていた
そんな中、1956年、16歳の時には、お父さんが他界したそうで、デヴィ夫人は高校を中退し、ますます、様々な仕事を掛け持ちして、家計を支えていたそうですが、
家の近所にあった「国際クラブ」という洋館で、チキータさんという女性と仲良くなると、チキータさんの紹介でナイトクラブでアルバイトを始めたそうです。
デヴィ夫人は17歳の時にアメリカ人宝石商のジェイムズ・ベイカーと知り合い様々な国に連れて行ってもらっていた
そして、翌年の1957年、17歳の時には、チキータさんの紹介で、アメリカ人宝石商のジェイムズ・ベイカーさんと知り合うと、
デヴィ夫人は、お金持ちのジェイムズ・ベイカーさんに、着せ替え人形のように着飾ってもらい、東京、ニューヨーク、ロサンゼルス、香港など、色々なところに連れて行ってもらったのだそうです。
(「千代田生命保険会社」は、この頃に退職したそうです)
デヴィ夫人は17歳の時には超高級ナイトクラブ「コパカバーナ」で”プリンセス”と呼ばれ人気を博していた
そんな中、デヴィ夫人は、ジェイムズ・ベイカーさんに、赤坂にある高級ナイトクラブ「コパカバーナ」に連れて行ってもらうと、オーナーだった長尾久子さんに気に入られたそうで、
「コパカバーナ」でホステスとして働き始めることになると、持ち前の美貌で、たちまち、「プリンセス」と呼ばれる人気者になったのだそうです。
(コパカバーナは、1957年にオープンしたばかりの、お客さんの90%が外国人という超高級ナイトクラブで、世界の社交場のような名声を得、世界各国から数多くの要人が訪れていたそうで、デヴィ夫人は、フィリピン財閥のカルロス・パランカさんと交際するほか、アメリカ人やドイツ人の大富豪から、ダイヤの指輪をはめられプロポーズをされたこともあったといいます)
貧しい家庭で生まれ育たったことから、中学卒業後は、家計を支えるため、定時制高校に通いながら、千代田生命保険会社(現・ジブラルタ生命保険)に就職し、休憩時間や土日にはアルバイトを掛け持ちしていたという、デヴィ夫人。しかし、 …
また、デヴィ夫人が「コパカバーナ」で働いていたのは、自立や家計を支えることのほか、英語を話せるようになるという目的もあり、働きながら、英会話の練習をし、一流の外国人と会話を交わしながら、世界に進出するチャンスを伺っていたそうで、
デヴィ夫人は、
「デヴィ夫人はいつも素敵なドレスを着て、高価な宝石を身に着け、世界中を飛び回る生活をして、ラッキーね」と言う方がいますが、とんでもありません。
私は人の3倍勉強して、人の3倍働いて、人の3倍努力して、人の3分の1の睡眠でやってきました。今でもそうです。私が自分をラッキーだと思うのは、幼いころに体験した戦争と貧しさが、どんな逆境でも生き抜く力を与えてくれたこと。
満点の星空を見上げながら、「いつか世界に飛び出し、星のようにきらめく存在になりたい」という夢を抱いていました。
と、語っています。
「【画像】デヴィ夫人の若い頃が美しい!現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1959年、19歳の時、インドネシアのスカルノ大統領に見初められ、大統領の愛人の一人となると、その後、大統領の第3夫人となって絢爛豪華な生活を送り、1965年、スカルノ大統領がクーデターにより失脚した後は、フランス・パリ …