1959年、19歳の時、インドネシアのスカルノ大統領に見初められ、大統領の愛人の一人となると、その後、大統領の第3夫人となって絢爛豪華な生活を送り、1965年、スカルノ大統領がクーデターにより失脚した後は、フランス・パリに亡命し、フランスの社交界で「東洋の真珠」と称されたという、デヴィ夫人。

今回は、そんなデヴィ夫人の、若い頃(スカルノ大統領との出会い以降)から現在までの活躍や経歴を、時系列でまとめてみました。

デヴィ夫人

「デヴィ夫人の生い立ちは?幼少期は極貧!16歳の時には父親が他界していた!」からの続き

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デヴィ夫人は10代の時にインドネシアのスカルノ大統領にプロポーズされていた

19歳の時にインドネシアのスカルノ大統領と知り合う

デヴィ夫人は、1959年、19歳の時、旧帝国ホテルのプルニエ(フランス風の魚介類料理専門のレストラン)で友達と待ち合わせをしていたところ、ちょうど、インドネシアのスカルノ大統領が来日中で、同ホテルでパーティーをしていたそうで、

その場で、スカルノ大統領の側近に誘われ、スカルノ大統領と知り合ったそうです。

19歳の時にスカルノ大統領からインドネシアに招待されるもアメリカ人の富豪2人からも求婚されており返事を迷っていた

その後、デヴィ夫人とスカルノ大統領は文通で交流を深めたそうで、出会いから3ヶ月後、

スカルノ大統領から、

2週間ほどインドネシアに遊びにいらっしゃいませんか?

と、招待されたそうで、

実は、ちょうどその頃、デヴィ夫人は、アメリカ人の富豪2人からも求婚されていたそうで、どう返事をするべきか迷ったそうですが、

(お父さんはその数年前に亡くなっており、一刻も早く愛するお母さんと弟さんを楽にしてあげるには、どの人と結婚するのが最善かと、思い悩んでいたそうです)

幼い頃から世界に飛び出したい願望があったことから、

そうだ、外国に行ったら、何かひらめきがあるかもしれないわ

と、スカルの大統領のお誘いを受けることにしたのだそうです。

19歳の時にスカルノ大統領からプロポーズされていた

こうして、インドネシアを訪れたデヴィ夫人は、それから2週間経った頃、

スカルノ大統領から、

私のインスピレーションとなってください。私の力の根源となり、人生の喜びとなってください

と、プロポーズされたそうで、

デヴィ夫人は、

こんなに美しいプロポーズは100年生きても聞くことはできないだろう。私は選ばれたのだ。そして、選ばれた以上、全力でお尽くししよう

と、決意を固めたのだそうです。

デヴィ夫人が20代の時はインドネシアのスカルノ大統領と正式に結婚し、スカルノ大統領失脚後はパリの社交界で引っ張りだことなっていた

22歳の時にスカルノ大統領と正式に結婚

そして、当初は、スカルノ大統領の愛人のうちの一人として宮殿で過ごしたそうですが、3年後の1959年、22歳の時、正式に、スカルノ大統領と結婚したのでした。

デヴィ夫人
デヴィ夫人とスカルノ大統領。

22歳の時に母親と弟がマスコミの執拗な取材攻撃が原因で死去

しかし、そんな幸せな日々も束の間、同時期、マスコミから執拗な取材攻撃を受けていたお母さんが、体調を崩し、他界。

さらには、弟の八曾男さんまでもがマスコミの執拗な取材攻撃を苦に、アパートで「ガス自殺」をしたのです。

このことを伝え聞いたデヴィ夫人は、深い悲しみに打ちひしがれたそうで、後に、スハルト大統領から5.6ヘクタールの家を贈られると、「Wisma Yasoo(八曾男)」と名付けたのだそうです。

(後に、この家は接収され、博物館になったそうです)

27歳の時にフランスに亡命していた

そして、結婚6年目の1965年9月30日には、スカルノ大統領がクーデターにより失脚し、幽閉されてしまいます。

そんな中、デヴィ夫人は身の危険を感じ、1967年、インドネシアの日本大使館に亡命を希望したそうですが、

日本にとって、インドネシアから逃げてきた元大統領の妻を保護することは、新しい政権と対立することになるため、受け入れてもらえなかったそうで、デヴィ夫人は、やむなく、亡命者に寛容なフランスに亡命したのだそうです。

(同年、デヴィ夫人は日本に一時帰国し、娘のカリーナさんを出産するのですが、スカルノ大統領に会いに行くことが叶わないまま、1970年6月21日、スカルノ大統領は他界されています)

デヴィ夫人
1967年9月、亡命先のフランスで。デヴィ夫人と娘のカリナさん(6ヶ月)。

20代の時はパリの社交界で”社交界の華””東洋の真珠”と呼ばれ引っ張りだこと

その後、デヴィ夫人は、フランスでは、毎晩のように、パリの社交界に顔を出し、週末にはパーティーに出席して、各界の著名人と交流を持ったそうで、

その美貌と知的な会話で、”社交界の華””東洋の真珠”と呼ばれ、たちまち、引っ張りだことなったのでした。

デヴィ夫人が30代前半の時にはフランスの俳優アラン・ドロンと交際していた?

そんなデヴィ夫人は、フランスの貴族やイギリスの伯爵など、多くの要人らと恋愛を楽しんでいたそうですが、あの、フランスの二枚目俳優・アラン・ドロンさんとも恋愛したことがあったといいます。

1964年、デヴィ夫人が、夫のスカルノ大統領と東京・帝国ホテルに滞在していた時、ちょうど、映画「山猫」の日本公開にあたり、プロモーションのため来日していたアラン・ドロンさんも泊まっていたそうで、

夫妻が出掛ける時も帰る時も、いつも決まって、アラン・ドロンさんはロビーにおり、

スカルノ大統領は、

あなたを待っているんじゃないか

と、やきもちを焼いたといいます。

もちろん、この時には、デヴィ夫人とアラン・ドロンさんの間には何もなかったそうですが、その後、スカルノ氏が失脚し、デヴィ夫人がパリに亡命した際には、アラン・ドロンさんと再会したそうで、1970年代初め(30代前半)には、アラン・ドロンさんと、一時、親密になったといいます。

ただ、アラン・ドロンさんには、当時、同棲していた恋人がいたため、うたかたの恋で終わったそうです。

ちなみに、アラン・ドロンさんは、2024年8月18日に死去しているのですが、アラン・ドロンさんの訃報に接し、デヴィ夫人は、この年の1月にフランスを訪問したものの、多忙でお見舞いに行けなかったことを悔やんでいるといい、

最近、彼が晩年に日本人女性と事実婚生活を送っていたと週刊誌が報じました。もしかしたら私の面影を追い求めていたのかもしれないと、勝手に思っていたところでした。ご冥福をお祈りします。

と、静かに語っています。

デヴィ夫人とアラン・ドロン
1970年代初め、パリの老舗レストラン「マキシム」で会話するデヴィ夫人とアラン・ドロンさん。

デヴィ夫人が40代の時にはインドネシアに帰国し石油関連事のビジネスを成功させていた

また、デヴィ夫人は、1980年、40歳の時には、インドネシアに帰国し、石油関連事のビジネスを成功させると、メンテン地区という高級住宅地に家を建てています。

デヴィ夫人が50代の時には毒舌がウケてワイドショーやバラエティ番組に引っ張りだことなっていた

そして、1991年、51歳の時には、アメリカのニューヨークへ移住し、その後、日本に帰国すると、1996年、56歳の時には、松田聖子さんのヌード写真集のコーディネーター役を引き受けたそうですが、

トラブルがあったのか、結局、松田聖子さんはヌード写真集を出版せず、全米進出という理由でアメリカに渡っており、デヴィ夫人は、松田聖子さんを散々こき下ろしています。

ただ、そこに目をつけた日本テレビのプロデューサーから、芸能ニュース(特番)の出演オファーが来たそうで、デヴィ夫人はこのオファーを引き受けると、その毒舌が大ウケし、以降、ワイドショーやバラエティ番組に出演するようになったのだそうです。

デヴィ夫人
バラエティ番組ではコミカルな姿も披露しているデヴィ夫人。

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デヴィ夫人の60代~80代(現在)は慈善事業や講演会を行っている

そんなデヴィ夫人は、タレント活動のかたわら、慈善事業にも積極的に取り組んでおり、2023年1月22日(82歳)には、ウクライナ、翌日の1月23日には首都キーウ(キエフ)や民間人虐殺があった近郊ブチャの病院などを訪れ、国内避難民へ防寒着やおむつなど支援物資を届けています。

また、2024年1月(83歳)には、鹿児島国際大学で講演会を行うと、人生のモチベーション(目標)を持つこと、生まれてから人生の転換期で感じたことや考えたこと、家庭環境やスカルノ元大統領との出会いなど、様々な経験を語るほか、質疑応答にも丁寧に答えており、現役で活動を続けています。

デヴィ夫人
2023年1月23日、ウクライナの首都キーウ(キエフ)を訪れたデヴィ夫人。

お読みいただきありがとうございました

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