映画「若大将」シリーズで大ブレイクすると、歌手としても、シングル「君といつまでも」が大ヒットし、以降60年以上もの間、テレビドラマ、映画、音楽など、芸能界で活躍してきた、加山雄三(かやま ゆうぞう)さん。
そんな加山雄三さんは、二枚目スターのお父さん・上原謙さんと女優のお母さん・小桜葉子さんのもと誕生すると、幼い頃から、お父さんの影響で音楽に恵まれた環境で何不自由なく育ち、
高校生の時には、ギターにハマるほか、モーターボートまで作り、大学時代はバンドを結成して、演奏でお小遣いを稼ぐなど、自由奔放に人生を謳歌(おうか)していたといいます。
今回は、加山雄三さんの、生い立ち(幼少期から東宝に入社するまで)をご紹介します。
加山雄三のプロフィールと家系図
加山雄三さんは、1937年4月11日生まれ、
神奈川県横浜市の出身
身長168センチ、
体重70キロ、
血液型はA型、
学歴は、
茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校
⇒茅ヶ崎市立第一中学校
⇒慶應義塾高校
⇒慶應義塾大学法学部政治学科
趣味は、
ゲーム、鉄道、絵画、料理、マリンスポーツ、
ちなみに、加山雄三さんの本名は、「池端直亮(いけはた なおあき)」で、芸名の「加山雄三」は、母方の祖母で女優の青木しのぶさんが、姓名判断に従い(縁起が良いと)名付けたのだそうです。
また、加山雄三さんのお父さんは俳優の上原謙さん、お母さんは女優の小桜葉子さんなのですが、
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小桜葉子さんの曽祖父は、維新十傑の岩倉具視という名家です。
1960年、「男対男」で映画デビューし、翌年の1961年には、「大学の若大将」で主役に抜擢されると、以降、「若大将」シリーズで絶大な人気を誇り、数多くの映画で主演を務められた、加山雄三(かやま ゆうぞう)さん。今回は、そ …
加山雄三が幼い頃は病弱で自然環境の良い神奈川県茅ヶ崎に移り住んでいた
加山雄三さんは、戦前・戦後の二枚目スターだった上原謙さんと女優の小桜葉子さんのもと誕生すると、生後8か月まで神奈川県横浜市神奈川区幸ヶ谷の家に過ごし、その後、1歳9か月まで東京都大田区田園調布に過ごしていたそうですが、
1歳9か月の時には大腸カタルを患うなど病弱だったそうで、子煩悩(ぼんのう)な父・上原謙さんによって、自然環境の良い神奈川県茅ヶ崎へ引っ越ししたそうです。
加山雄三は幼い頃から父親・上原謙の影響で音楽に親しんでいた
そんな加山雄三さんは、父・上原謙さんの影響で、赤ちゃんの頃から「デキシーランド・ジャズ」(クラシック・ジャズ)を子守唄代わりにして眠るほど、音楽に親しんでいたといいます。
幼い頃の加山雄三さんとお父さんの上原謙さん。
加山雄三は8歳の時に叔母の指の動きを見ただけで「バイエルンの74番」を弾けるようになっていた
そんな加山雄三さんは、8歳の時には、自宅を訪ねてきた叔母さんが、オルガンで「バイエルンの74番」を弾くのを見てオルガンに興味を持つと、なんと、叔母さんの指の動きを見ただけで、「バイエルンの74番」をオルガンで弾けるようになったそうです。
また、13歳の時には、通学路の途中に、有名ピアニストのレオニード・クロイツァーさんが住んでいたことから、いつも立ち止まっては、レオニードさんのピアノの音色を聴くなど、音楽的にとても恵まれた環境で育ったそうです。
加山雄三は14歳の時にヒット曲「夜空の星」の原曲を作曲していた
その後、加山雄三さんは、14歳の時、レオニード・クロイツァーさんにピアノの弟子入りを願い出たそうですが、(理由は不明ですが)叶わず、レオニード・クロイツァーさんが推薦してくれた別の先生の指導を受けたそうで、
14歳にして初めて作曲すると、これが、後のヒット曲「夜空の星」の原曲になったのだそうです。
加山雄三は14歳にして、ボート製作、波乗り、ダイビング、スキーなどを謳歌していた
また、加山雄三さんは、音楽以外にも、14歳の時、自分で原動機付きのボートを製作したり、茅ヶ崎の海で波乗りやダイビングを楽しむほか、当時、ほんの一部の人しか楽しめなかったスキーも習い始めるなど、少年時代を謳歌していたそうです。
戦前・戦後の二枚目スターだったお父さん・上原謙さんと女優の小桜葉子さんとの間に誕生すると、その後、経済的にも音楽的にも恵まれた環境の中で育ち、生まれながらの才能にも恵まれた、加山雄三(かやま ゆうぞう)さん。今回は、そん …
加山雄三は中学卒業後は慶應義塾高校に進学していた
そして、高校受験の時期になると、自由でのびのびとした校風が自分に合っていると思い、慶應義塾高校に進学しようと、受験までの半年間、猛勉強すると、
その甲斐あって、見事、合格したそうで、1953年4月、15歳の時には、晴れて慶應義塾高校に入学したそうです。
加山雄三は高校2年生の時に友達の影響でギターに興味を持つようになっていた
また、加山雄三さんは、高校2年生の時、初めて、スキー競技大会に出場したそうですが、友達と志賀高原の「石の湯スキー場」に行った際、友達のうちの一人がウクレレを弾いているのを見て興味を持ったそうで、
1時間くらいコーチしてもらってウクレレの基礎をマスターすると、その後、その友人の影響でギターにも興味を持つようになったそうで、質屋で500円のギターを買って練習したそうです。
幼少期から裕福な家庭で何不自由なく育ち、高校生の頃には、ギターにハマるほか、モーターボートまで作るなど、自由奔放に人生を謳歌されていた、加山雄三(かやま ゆうぞう)さんですが、恵まれすぎていたせいか、そんな環境を提供して …
加山雄三は高校卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に進学していた
とはいえ、この頃はまだ、音楽を職業にしようとは思っておらず、むしろ、少年の頃から船を作る仕事に就くのが夢だったそうで、大学進学に向けて、船舶設計の専攻がある工学部に進学を希望していたそうですが・・・
工学部は成績不振のため断念し、法学部政治学科に進学したのだそうです。
加山雄三は20歳の時にバンド「カントリー・クロップス」を結成し小遣いを稼いでいた
そんな加山雄三さんは、1957年、20歳の時には、同じ慶應義塾大学の仲間達6人で「カントリー・クロップス」を結成すると、サイド・ギターとボーカルを担当したそうで、
銀座の貸しダンスホール、学生パーティー、米軍横田基地などで、ウエスタンとロカビリーを主に演奏し、お小遣いを稼いだそうです。
加山雄三さんの大学時代のバンド「カントリー・クロップス」(後列左から2番目が加山雄三さん)。
加山雄三は22歳の時に父・上原謙のコネで「東宝」に入社していた
そして、大学卒業後は、普通に就職しようと、「アサヒビール」や「三菱商事」などの資料を取り寄せていたそうですが・・・
バンド仲間で親友の峰岸慎一さん(後の「文化放送」会長)の助言もあり、1960年4月、22歳の時、父・上原謙さんのコネを使って芸能界入り(東宝に入社)したのだそうです。
(お父さんには、当初、芸能界入りを大反対されたそうですが、最終的には許してもらったそうです)
ちなみに、加山雄三さんが、芸能界に入ろうと決めたのは、芸能界でお金儲けをして、かねてより憧れていた船を作ろうと思ったからだそうです。
「【画像】加山雄三の若い頃は?デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1960年、映画「男対男」で俳優デビューすると、1961年には、主役に抜擢された「大学の若大将」でブレイクし、以降、数多くの「若大将」シリーズに出演するほか、歌手としても、5枚目のシングル「君といつまでも」が大ヒットする …