戦前・戦後の二枚目スターだったお父さん・上原謙さんと女優の小桜葉子さんとの間に誕生すると、その後、経済的にも音楽的にも恵まれた環境の中で育ち、生まれながらの才能にも恵まれた、加山雄三(かやま ゆうぞう)さん。今回は、そんな加山さんの生い立ちをご紹介します。

「加山雄三の母親は女優の小桜葉子!高祖父は500円札の岩倉具視!」からの続き

Sponsored Link

神奈川県茅ヶ崎市で育つ

戦前・戦後の二枚目スターだったお父さん・上原謙さんと女優の小桜葉子さんとの間に誕生した加山さんは、生後8ヶ月まで神奈川県横浜市神奈川区幸ヶ谷で育ち、その後、東京都大田区田園調布に移り住まれるのですが、

1歳9ヶ月の時、「大腸カタル」を患うと、子煩悩だったお父さんの上原さんが、息子のためにと、自然環境の良い神奈川県茅ヶ崎市へ引っ越しされたそうで、

以来、加山さんは、31歳で結婚するまで、ここ(実家)で暮らされたのだそうです。

(そこは、海と茅ケ崎駅の中間辺りにある平屋の日本家屋だったそうで、お手伝いさんが必ず2人はいたそうです。)


2歳の時の加山さん。

生まれながらの才能と環境に恵まれていた

さて、加山さんは、お父さんの影響で、赤ちゃんの頃から、「デキシーランド・ジャズ」(クラシック・ジャズ)を子守唄代わりにして眠るほど、音楽に親しまれていたそうで、

加山さんが8歳の時、自宅を訪ねてきた叔母さんがオルガンで「バイエルンの74番」を弾くのを見てオルガンに興味を持つと、なんと、叔母さんの指の動きを見ただけで、「バイエルンの74番」をオルガンで弾けるようになったそうです。

また、1950年、13歳の時には、通学路の途中に、有名ピアニストのレオニード・クロイツァーさんが住んでいたことから、いつも立ち止まっては、レオニードさんのピアノの音色を聴いていたそうで、音楽的にもとても恵まれた環境で育たれたのでした。

(神奈川県茅ケ崎市には、戦前から外国人が多く住んでいたそうで、サザンオールスターズの楽曲にも「ラチエン通りのシスター」とあるように、当時住んでいた外国人にちなんだ地名が現在も残っているそうです)

ヒット曲「夜空の星」は14歳で初めて作曲した曲が原型

そんな加山さんは、1951年、14歳の時、レオニードさんにピアノの弟子入りを願い出るのですが、(理由は不明ですが)叶わず、結果、レオニードさんが推薦してくれた別の先生の指導を受けることに。

同年、加山さんは初めて作曲し、お父さんに聴かせたそうですが、この曲が、後のヒット曲「夜空の星」の原型になったそうです。

少年時代にボート製作、波乗り、ダイビング、スキーなど謳歌

また、加山さんは、子どもの頃から、自宅のガレージの一角で、発明や実験なども楽しまれたそうで、11歳の時には、数学を習いに行っていた商船大学の学生に、船に関する本を見せてもらったり、話を聞いているうちに、すっかり船に魅せられてしまい、14歳の時には、自分で原動機付きのボートを製作。

また、茅ヶ崎の海で波乗りやダイビングをするほか、当時、ほんの一部の人しか楽しめなかったスキーも習い始めるなど、子供時代を謳歌されたのでした。

(スキーは、大学時代、国体に出場するほどの腕前だったそうです)

Sponsored Link

慶應義塾高校に入学

そんな加山さんも、高校受験の季節になり、志望校だった「都立日比谷高校」「早稲田実業高校」「慶應義塾高校」の3校を見学に行くと、プールが日吉と三田に2つあったことや、なんとなく伸び伸びした校風が自分にあっていると思った、「慶應義塾高校」のみを受験することを決められたそうで、

それからは、受験までの半年間というもの、英語・数学・国語の主要3科目それぞれに家庭教師をつけ、さらには、1日英単語200個を暗唱するなど、猛勉強されたそうで、その甲斐あって、見事合格。

1953年4月、晴れて「慶應義塾高校」に入学されたのでした。

「加山雄三は高校時代に父・上原謙をスパーリングで殴っていた?」に続く

加山さんが12歳の頃の家族写真。

Sponsored Link