「こころ万華鏡」「紅の蝶」「恋する街角」などの代表曲で、「演歌界の貴公子」と呼ばれている、山内惠介(やまうち けいすけ)さん。
そんな山内惠介さんは、演歌好きだったお母さんの影響により、幼い頃から保育園の砂場で遊びながら演歌を口ずさむような子供だったそうで、中学生の時には、将来、演歌歌手になりたいと思っていたそうですが、
そんな中、高校1年生の時に、福岡県のカラオケ大会で見事優勝すると、そこで、作曲家の水森英夫さんにスカウトされて、高校2年生の時に単身上京したといいます。
今回は、山内惠介さんの生い立ち(幼少期から高2で上京まで)をご紹介します。
山内惠介のプロフィール
山内惠介さんは、1983年5月31日生まれ、
福岡県糸島郡前原町(現・糸島市)の出身、
身長178センチ、
体重58キロ、
血液型はO型、
学歴は、
糸島市立前原小学校
⇒糸島市立前原西中学校
⇒筑前高校
⇒(転校)北豊島中学校・高等学校通信制課程卒業
ちなみに、本名は、「山内恵介」(読み方同じ)で、芸名は、「恵」の字を「惠」に一文字変えただけだそうですが、デビュー時に、師匠で作曲家の水森英夫さんにより名付けられたそうです。
山内惠介が幼い頃は甘えん坊の男の子だった
山内惠介さんは、3人兄弟の末っ子として誕生したそうですが、長兄とは12歳差、次兄とは9歳差と、年が離れていたこともあり、お母さんにとてもかわいがられて育てられたそうで、幼い頃はとても甘えん坊の男の子だったそうです。
山内惠介は母親の影響で幼い頃から演歌を歌っていた
また、山内惠介さんは、お母さんが演歌好きで、特に美空ひばりさんが好きだったことから、その影響を受けて、保育園で砂遊びをしながら演歌を口ずさむような子供だったそうですが、
お母さんの親戚がカラオケが大好きだったことから、みんなでよくカラオケに行っていたそうで、5,6歳の頃、初めて、美空ひばりさんの「みだれ髪」を、(耳で聞いたまま)裏声で、
な~みだを~しぼる~
と歌うと、みんなが「すごい!」と褒めて喜んでくれたといいます。
山内惠介は幼い頃から歌の持つ力を感じ演歌歌手になりたいと思い始めていた
そして、山内惠介さんが演歌を歌うと、おじいちゃん、おばあちゃん、お母さん、親戚の人たちが、時に涙をボロボロ流して感動してくれ、保育園で砂遊びをしながら演歌を口ずさんでいるだけで、先生たちからものすごくかわいがられたそうで、
そんな経験を重ねるうち、幼いながら、歌の持つ力を感じ、演歌歌手になりたいと思うようになったのだそうです。
山内惠介は小学校時代は放送部員で美空ひばりの「川の流れのように」や「愛燦燦」を校内放送で流していた
そんな山内惠介さんは、小学校時代は、放送部員だったそうですが、当時はJポップが全盛の時代だったため、みんなと話を合わせるために、ニューミュージックやJポップを聴いていたそうですが、やっぱり、演歌が一番好きだったことから、
(そろそろ思春期に入る年頃だったため)少しでも同級生が穏やかな気持になるようにと、美空ひばりさんの「川の流れのように」や「愛燦燦」を、校内放送でしょっちゅう流していたそうです。
(そのたびに、友達からは、「山内がまたあんな曲をかけてる」と言われたそうです)
小学生時代の山内惠介さん。
山内惠介は中学生の頃から演歌歌手を目指すもどうすればいいのか分からなかった
そして、中学生になった山内惠介さんは、”演歌歌手になる”という夢が確たる進路として定まったそうで、中学校卒業後はすぐに東京に出て歌手になりたかったそうですが、どうすれば演歌歌手になれるのかが分からず、
両親から、
高校受験はしなさい。志望校に受かったら好きなことをやっていい
と、言われたことから、
この言葉に従って一生懸命勉強し、進学校である県立筑前高校を受験すると、見事合格したのだそうです。
山内惠介は高校1年生(16歳)の時にカラオケ大会で優勝しスカウトされていた
そんな中、1999年、高校1年生(16歳)の時、母方の叔父が勝手に福岡県で行われたカラオケ大会に応募したそうですが、山内惠介は、見事、優勝を果たしたそうで、
その際、ゲスト審査員だった(後に氷川きよしさんらを輩出したことで知られる)作曲家の水森英夫さんの目に留まり、スカウトされたのだそうです。
(このカラオケ大会は、単なる街ののど自慢大会ではなく、新人発掘の意味合いのある大会だったそうで、演歌界をリードする作曲家が来ていたことから、山内惠介さんは千載一遇のチャンスとして臨んでいたそうです)
ちなみに、山内惠介さんは、その時のことを、
大会当日、水森先生から『今すぐ東京に持って行きたい逸材』と評していただくと、僕がコメントする前に客席にいた母が『持って帰ってー』と絶叫していました
と、語っています。
山内惠介は高校2年生の時に単身上京していた
こうして、山内惠介さんは、この大会をきっかけに、ほぼ月1回のペースで、単身、東京に行き、水森英夫さんからレッスンを受けるようになると、翌年2000年11月、高校2年生の時には、単身上京したのだそうです。
「【画像】山内惠介の若い頃は?デビューから現在までの代表曲や経歴を時系列まとめ!」に続く
2001年4月18日、「霧情」で演歌歌手デビューすると、2009年にリリースした10枚目のシングル「風蓮湖」がロングヒットを記録するほか、2014年3月5日にリリースした15枚目のシングル「恋の手本」もヒットとなった、山 …