コンピュータプログラムによる自動演奏を取り入れた画期的な音楽で一斉を風靡した、細野晴臣(ほその はるおみ)さんですが、実は、祖父の細野正文さんはタイタニック号に乗船した唯一の日本人で、生還を果たすも、帰国後、長きに渡ってバッシングされ続けていたといいます。
今回は、細野晴臣さんの祖父・細野正文さんがバッシングされ続けた理由、その真相、汚名がそそがれるまでの経緯について、細野晴臣さんの証言を交えつつ、ご紹介します。
「【画像】細野晴臣の若い頃(YMO解散後)から現在までの経歴を時系列まとめ!」からの続き
細野晴臣の祖父・細野正文はタイタニック号沈没から生還していた
細野晴臣さんの祖父・細野正文さんは、鉄道院の第1回留学生としてロシアのサンクトペテルブルクに赴いていたそうで、
2年ほどロシアに滞在し、帰国する時に、知人のいるイギリスに寄り、そこからタイタニック号に乗ってニューヨーク経由で帰国することにしたといいます。
(日本人の乗船客は細野正文さん1人だったそうです)
そして、細野正文さんは、あの、タイタニック号の沈没という歴史的大事件に巻き込まれるも、九死に一生を得て生還したのだそうです。
細野晴臣の祖父・細野正文はタイタニック号沈没から生還するもバッシングされ続けていた
しかし、細野正文さんは、帰国後、長い間、
他人を押しのけてまで生きて帰った卑怯者
と、バッシングされ続けたといいます。
というのも、タイタニックには、緊急時に救命ボートに乗るのは、女性と子供が優先というルールがあったそうで、
そのため、多くの人が犠牲になったのに、なぜ、おめおめと生きて帰ってきたのかと思う人が多く、かなり執拗(しつよう)に攻撃されたのだそうです。
また、細野正文さんは、そのバッシングのせいで、生還後、鉄道院の役職も解かれたといいます。
ただ、細野正文さんは、明治生まれの気骨だったのか、自分の中でも多少は生きて帰ってきたことを恥じる気持ちがあったのか、一切、反論することはなかったそうです。
(細野正文さんは、寡黙な人だったということもあり、細野晴臣さんの両親も、直接にはタイタニックの話をほとんど聞いたことがなかったそうです)
細野晴臣は高校生頃に祖父・細野正文がバッシングされていたことを知った
ちなみに、細野晴臣さんが、細野正文さんがタイタニック号に乗っていて生還したことを知ったのは、小学5年生頃のことだったそうで、
タイタニックの映画「OSタイタニック/忘れえぬ夜」(1958年)を両親と観に行った際、その帰りに、
お父さんが、
タイタニックにおじいさんが乗っていた
と、ボソッと言い、知ったといいます。
(映画を観た後だったことから、随分驚いたそうです)
そして、高校生の頃に、細野正文さんが卑怯者呼ばわりされていたことも、週刊誌の記事などから知ったそうですが、
細野晴臣さんは、
(生きて帰ることがよしとされなかったことについて)その時代の風潮をよく知りませんから、何ともいえないのですけれどね。しかし、それは僕にとっては大問題なんですよ。
祖父は当時まだ41歳で、帰ってきてから父が生まれたわけです。もし、生還しなければ、僕は生まれていない。これは宿命ですよ。
僕は自分の力で生きているし、自分の運命は自分のものだと思います。運命は自分で何とかできる。でも、生まれのことはどうしようもない。
と、語っており、
おじいさんがバッシング中傷される存在であることから、
何でお前は生まれてきた
と、言われているような、いたたまれない気持ちになったといいます。
(細野正文さんは、細野晴臣さんが生まれる前の1939年に68歳で他界されていることから、直接会ったことはなく、顔も写真でしか知らないそうです)
細野晴臣の祖父・細野正文の手記が見つかり卑劣な行動を取っていなかったことが判明するも・・・
そんな中、1942年、叔父の細野日出男さんが細野正文さんの遺品を整理している際、タイタニックが沈んだ4月14日の夜から、救助されてニューヨークに送り届けられる4月18日までのことが書き綴られた手記(タイタニックの船室にあった便箋)を見つけたそうで、
その手記には、細野正文さんが女性と子供が優先というルールを守って船と一緒に沈む覚悟でいたこと、しかし、救命ボートに空きがあると聞いて、(警備の船員が持つ拳銃に打たれてもやむを得ないという決死の判断で)ボートに向かって飛び降りたことが書かれていたそうで、
細野正文さんが決して卑劣な行動を取っていないことが判明したのだそうです。
細野晴臣の祖父・細野正文へのバッシングは手記が見つかった後も続いていた
そこで、叔父の細野日出男さんは、細野正文さんの汚名を返上するために、様々な取り組みをしたそうですが・・・
戦時中だったこともあり、なかなか汚名をそそぐことはできなかったそうです。
しかも、その中傷は戦後1950年代まで続いたのだそうです。
(そのせいで、細野晴臣さんの両親もとても嫌な思いをしていたそうです)
ちなみに、細野正文さんを中傷していたのは、一人のジャーナリストで、細野日出男さんはその人の書いたものに反論していたそうです。
細野晴臣の祖父・細野正文はジェームズ・キャメロン監督作品「タイタニック」の公開でようやく汚名がそそがれていた
しかし、歳月は流れ、1997年、ジェームズ・キャメロン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の映画「タイタニック」が公開されるにあたり、(映画公開に合わせた話題作りもあり)タイタニック財団(RMSタイタニック社)が調査に来た際、
それまで外に出したことのない細野正文さんの手記を貸し出すと、RMSタイタニック社の調査によって、それまで分かっていなかったことが、いろいろと明らかになり、
- それまで、細野正文さんがどの救命ボートに乗っていたのかがはっきりしておらず、そのせいで「他人を押しのけてまで」といった風評が立っていたところ、細野正文さんが10号ボートに乗っていたことが判明
- それまで、10号ボートの船員が、乗っていたのはアルメニア人が2人だと証言したために、細野正文さんの存在が不確かだったところ、そのアルメニア人が後に、日本人と一緒にボートを漕いだと、回想録を出していたことが判明
と、細野正文さんがこのボートに乗っていたことがはっきりと分かったそうで、
(ヨーロッパ人には外国人の区別がつかず、細野正文さんはアルメニア人と間違われていたのではないかとのこと)
この調査結果が、手記の存在とともに新聞や雑誌で取り上げられ、ようやく、細野正文さんの汚名が返上できたのだそうです。
ちなみに、細野晴臣さんは、
(頭の上の暗雲が去ったか、という質問に対し)ええ、ずっとタイタニックにつきまとわれている感じでしたからね。
僕ばかりではなく、親戚一同が同じ気持ちでしたから、皆が一堂に会してお祝いをしましたよ。「ああ、これで終わった」と。
でも、まだつきまとわれていますね。こうして取材を受けるんだから(笑)。
と、語っています。
「細野晴臣の妻は?娘は?孫はYUTA!コシミハルとの関係は?」に続く
1969年、ロックバンド「エイプリル・フール」のベーシストとしてデビューを果たすと、以来、50年以上に渡り、音楽活動を続けている、細野晴臣(ほその はるおみ)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょうか。 …