1977年、佐野元春さんと共作したアルバム「Funny Walkin」で歌手デビューすると、その後は、歌手としての活動のほか、写真家としても活動している、佐藤奈々子(さとう ななこ)さんですが、
実は、幼少期から高校までは、オリンピック選手だった叔母さんに器械体操を徹底的に仕込まれ、自身もオリンピック選手を目指して、日夜練習に明け暮れる日々を送り、高校生の時には、インターハイに出場するまでになっていたといいます。
今回は、そんな佐藤奈々子さんの生い立ち(幼少期から高校卒業まで)をご紹介します。
佐藤奈々子のプロフィール
佐藤奈々子さんは、1955年12月17日生まれ、
東京都中野区の出身、
学歴は、
慶應義塾大学文学部卒業、
ちなみに、「佐藤奈々子」は本名で、「nanaco」名義でも活動しています。
佐藤奈々子は幼い頃から元五輪選手の叔母に器械体操を仕込まれていた
佐藤奈々子さんは、幼い頃はおままごとやお人形遊びなど、女の子らしい遊びが好きだったそうですが、
体操の元オリンピック選手だった叔母さんに、3歳から器械体操をスパルタ式に特訓され、家で布団を何枚も敷いてでんぐり返りや逆立ちなどの練習をしていたそうで、
佐藤奈々子さんは、
だからもう「大リーグ養成ギブス」じゃないけど、そのぐらいにもう凄い仕込まれて。叔母さんはその後、オリンピックのコーチとか審判になって、色んな選手をいろんな大会に行って、写真を撮ってくるの。
それを私の部屋に貼るわけ。ザーっと。「あの手!」「あの足!」って言って。そういう感じだったの。その頃はビデオとかじゃなかったでしょう。だから、すごかった。
と、語っています。
ちなみに、佐藤奈々子さんの叔母さんは、オリンピック前日にアキレス腱を切り、オリンピックに出られなくなっていたそうで、佐藤奈々子さんは、そんな叔母さんの夢を託されたのだそうです。
佐藤奈々子は中学時代には器械体操の試合に出るようになっていた
そんな佐藤奈々子さんは、小学生の時には、日本体育大学や他の大学生達の合宿に一緒に行き、隅っこにマットを引いて練習していたそうで、
中学生の時には、都大会や全国大会などの試合に出るようになったそうです。
佐藤奈々子は高校ではインターハイに出場するも体が大きくなり過ぎて無理だと感じ始めていた
また、器械体操では、姿形(すがたかたち)を徹底的に保たなければいけなかったことから、食べ物も徹底していたそうで、サンマや味噌汁のような和食はとらず、チーズにバターのような外国の食べ物ばかり食べていたそうです。
(太ってはいけないので、お昼はリンゴ1個だけだったそうです)
そんな中、高校進学後は、インターハイに出場するまでになったそうですが、今度は体が大きくなりすぎてしまい、インターハイでは3位になったものの、これ以上大きくなったら無理だと思い始めていたのだそうです。
佐藤奈々子は高校2年生の時に練習中に頭から落下し器械体操を辞めていた
そんな中、佐藤奈々子さんは、高校2年生の時、段違い平行棒を練習中、上のバーから頭から飛び出して床に落ち、1週間も記憶が戻らなくなる大ケガを負ってしまったそうで、
これをきっかけに、もともと怖がりな性格だったことや、お母さんが反対したことから、器械体操を辞めたのだそうです。
ただ、佐藤奈々子さんは、
でも叔母さんとかは悲しかったと思うし、私はすんなりだけど。でも今でも体操とかの試合をテレビとかで見ると、じーんとくる。何か自分の中に記憶があるから。
ここまでいくのに、どれほど大変な思いをして練習してきたかとか。自分の中に、そういうものがあるから。動きを見るだけで反応するものがあるのね。気持ちがもう何か感動するわけ。自分が残念とかそういうんじゃなくて。
スポーツってそうだよね。みんなね。例えば走ってる経験があると走ってる人を見たら、じーんと来るものがあるじゃない。ただの好きとかじゃなくて。やっぱり自分の中にあるものが。
と、語っています。
佐藤奈々子は慶應義塾大学に進学していた
そんな佐藤奈々子さんは、これまで器械体操一筋だったことから、取り柄が何もなくなったと感じるようになったそうで、
それならばと、良い大学に入ればなんとかなるのではと思って勉強し、慶應義塾大学に進学したのだそうです。
「【画像】佐藤奈々子(nanaco)の若い頃は?代表曲やアルバムを時系列まとめ!」に続く
1977年、21歳の時、佐野元春さんとの共作アルバム「Funny Walkin’」で歌手デビューすると、その後も、半年に1枚のペースでアルバムをリリースし、 1981年には、野宮真貴さんのデビューアルバム「ピンクの心」の …