1979年に「オフコース」の正式メンバーとなると、解散まで、ドラムスとして「オフコース」の活動を支えた、大間ジロー(おおま じろう)さんですが、
「オフコース」に加入する前は、高校3年生の時に結成した「ザ・ジャネット」(「ドナルドダック」より改名)というバンドで活動していたといいます。
今回は、大間ジローさんの若い頃(ザ・ジャネット(ドナルドダック)時代)のシングルほか経歴を時系列でご紹介します。
「大間ジロー(ドラム)の生い立ちは?小学生で太鼓!中学でティンパニ!高校でロック!」からの続き
大間ジローは19歳の時に「ザ・ジャネット」として「美しい季節/恋はサーカス」でレコードデビュー
1973年1月、高校3年生の時、松尾一彦さんらと共にロックバンド「ドナルドダック」を結成した大間ジローさんは、同年3月末には、「ロックンロールコンテスト」に出場して準優勝しているのですが、
同年秋には、バンド名を「ドナルドダック」から「ザ・ジャネット」に改名して、アマチュアバンドコンテスト番組「キンキン&ムッシュのザ・チャレンジ!!」に出場すると、今度は、北海道の「ふきのとう」を破って、見事、優勝に輝き、
1974年3月21日には、シングル「美しい季節/恋はサーカス」でレコードデビュー。
すると、「美しい季節/恋はサーカス」は、オリコン50位以内に入るヒットを記録しています。
「美しい季節/恋はサーカス」
(ちなみに、この時、「ザ・ジャネット」をプロデュースしたのは、後に、「オフコース」のプロデュースを手がけた武藤敏史さんだったそうです)
大間ジローは20歳~21歳の時に「渚のあの人」「あなたへ」「あの娘の胸に途中下車」をリリースするも・・・
その後も、大間ジローさんら「ザ・ジャネット」は、
- 1974年7月20日には、「渚のあの人⁄POP ON THE SAND」
「渚のあの人⁄POP ON THE SAND」 - 1974年12月20日には、「あなたへ⁄何が君をそうさせる」
「あなたへ⁄何が君をそうさせる」 - 1975年7月20日には、「あの娘の胸に途中下車(大間ジローさん作曲)/セピア色の写真(松尾一彦さん作曲)
と、合計4枚のシングルをリリースしたのですが・・・
4枚目以外は、大間ジローさんらのオリジナル曲ではなく、職業作家(阿久悠さん、平尾昌晃さん、東海林修さん)によって作られたものだったそうで、
メンバー間では、歌謡曲風の曲調にに戸惑いが生じていたといいます。
また、この頃、演奏や公開録音で地方に行くこともあったそうですが、手違いなどで出番がなかったりと、散々な目に遭っていたといいます。
大間ジローは21歳の時にサンシャインミュージックに移籍するとプロモーションで”ツッパリ”の格好をさせられていた
そんな中、「ザ・ジャネット」は、マネージャー夫婦と食事をしていた際、ふとしたことから言い争いになり、店内で大暴れするほか、メンバーがマネージャーに殴られるなど、大騒動になってしまい、この一件で、マネージャーとはケンカ別れし、事務所も解散したそうで、
その後、「ザ・ジャネット」は、東芝EMI宣伝部(ハゲプロ)を経て、サンシャインミュージックに移籍したそうですが・・・
サンシャインミュージックは、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」が在籍する、いわゆる横須賀の”ツッパリバンド”がメインの事務所だったことから、大間ジローさんたちも社長命令で長髪を切らされることになったそうで、
しかも、新曲の最高のプロモーションになるからと、髪を切る様子が、テレビ東京の番組で放映されたといいます。
大間ジローは21歳の時に「ザ・ジャネット」を解散
その後も、「ザ・ジャネット」は、社長命令で、”短髪にスカジャン”といった横須賀のツッパリの格好をさせられたそうですが・・・
色物扱いされただけで、「ザ・ジャネット」の音楽が取り上げられることはなかったそうで、
バンドとしての手応えをつかむことができないまま、大間ジローさんは、松尾一彦さんと相談のうえ、解散を決意し、1975年12月、「渋谷ジァン・ジァン」でのライブを最後に、「ザ・ジャネット」を解散したのだそうです。
「【画像】大間ジローの若い頃(オフコース時代)は?解散から現在までの経歴まとめ!」に続く
1979年8月に「オフコース」の正式メンバーとなると、以降、「さよなら」「Yes-No」「I LOVE YOU」「言葉にできない」「YES-YES-YES」ほかヒットを連発し、日本史上に残る日本武道館10日間コンサートも …