1982年2月25日、23歳の時、「安全地帯」として、シングル「萠黄色のスナップ」でレコードデビューすると、当初は、売り上げが振るわなかったものの、1983年には、シングル「ワインレッドの心」が大ヒットを記録した、武沢豊(たけざわ ゆたか)さん。
そんな武沢豊さんは、1988年、「安全地帯」が、第1回目の活動休止となると、蛎崎弘さんと「蛎崎弘+”r”project」の活動を開始するほか、1992年には、音楽プロデューサーとしての活動も本格的にスタートさせています。
今回は、武沢豊さんの、デビューから「安全地帯」の1回目の活動休止までの代表曲やアルバムほか経歴を時系列でご紹介します。
「武沢豊の若い頃は?安全地帯のアマチュア時代は事故で長期入院していた!」からの続き
武沢豊は23歳の時「安全地帯」として井上陽水のバックバンドをするもそのレベルの高さに挫折しそうになっていた
1981年9月、井上陽水さんのツアーにバックバンドとして帯同した、武沢豊さんら「安全地帯」ですが、井上陽水さんのツアーでは、そのレベルの高さに挫折しそうになったそうで、
武沢豊さんは、
練習を積んで、実力も十分ある。そう勢い勇んで東京に出てきてみると、オレたちぐらいの実力のバンドなんてザラにいることがわかった
と、語っています。
それでも、武沢豊さんら「安全地帯」は、そんな挫折感を踏み台にして、さらに練習に励んだのだそうです。
武沢豊は23歳の時に「安全地帯」として「萠黄色のスナップ」でレコードデビューするも売り上げは振るわなかった
そんな「安全地帯」は、1982年2月25日には、「萠黄色のスナップ」でレコードデビューを果たしたそうですが、売り上げは振るわず、その後も、「安全地帯」は井上陽水さんのバックバンドを続けたそうです。
そして、その後も、
- 同年10月25日には、2枚目のシングル「オン・マイ・ウェイ」
「オン・マイ・ウェイ」 - 翌年の1983年1月25日には、ファーストアルバム「安全地帯 I Remember to Remember」
と、リリースしたそうですが・・・
相変わらず、パッとしない状態が続いたのだそうです。
武沢豊は25歳の時「安全地帯」として「ワインレッドの心」がオリコンチャート1位を獲得する大ヒットを記録
しかし、1983年11月25日、4枚目のシングル「ワインレッドの心」をリリースすると、サントリー「赤玉パンチ」のCMイメージソングになったことで注目を集め、
さらには、「夜のヒットスタジオ」「ザ・ベストテン」といった人気音楽番組で歌ったことで、人気に火がつき、「ワインレッドの心」はオリコンチャート1位を獲得する大ヒットを記録したのでした。
「ワインレッドの心」
武沢豊が26歳~28歳の時には「安全地帯」として「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさようなら」「碧い瞳のエリス」「プルシアンブルーの肖像」が大ヒット
すると、「安全地帯」は、その後も、
- 1984年10月には、「恋の予感」
「恋の予感」 - 1985年1月には、「熱視線」
「熱視線」 - 1985年6月には、「悲しみにさようなら」
「悲しみにさようなら」 - 1985年10月には、「碧い瞳のエリス」
「碧い瞳のエリス」 - 1986年7月には、「プルシアンブルーの肖像」
「プルシアンブルーの肖像」
と、大ヒットを連発。
こうして、「安全地帯」は、トップバンドの地位を不動のものとしたのでした。
武沢豊は36歳の時には音楽プロデューサーとしての活動を本格化させていた
ただ、そんな「安全地帯」も、1988年、突然、活動休止を宣言すると、
以降は、
- 1990年に活動再開
- 1993年活動再開、活動休止
- 2002年に活動再開
- 2004年に活動休止
- 2010年に活動再開
と、活動休止と活動再開を繰り返しているのですが、
そんな中、武沢豊さんは、1988年には、蛎崎弘さんと「蛎崎弘+”r”project」の活動を開始するほか、1992年には、音楽プロデューサーとしての活動を本格的にスタートさせています。
「武沢豊の「安全地帯」休止以降は?現在は?脳腫瘍?結婚は?子供は?」に続く
1988年に「安全地帯」が活動休止となると、以降、「安全地帯」が活動再開と活動休止を繰り返す中、プロデュースやスタジオミュージシャン活動をしていたという、武沢豊(たけざわ ゆたか)さん。 そんな武沢豊さんは、「安全地帯」 …