大学生の時、「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成すると、ファーストシングル「帰ってきたヨッパライ」が大ヒットを記録し、以降、「悲しくてやりきれない」「あの素晴らしい愛をもう一度」など、日本の音楽史に残る名曲を世に送り出した、加藤和彦(かとう かずひこ)さんですが、

2009年10月17日、長野県北佐久郡軽井沢町のホテルで首を吊って亡くなっているのが発見されました。

今回は、加藤和彦さんがなぜ死を選んだのか、また、公開された遺書について、ご紹介します。

加藤和彦

「【画像】加藤和彦の若い頃(サディスティック・ミカ・バンド)のアルバムや代表曲は?」からの続き

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加藤和彦の死因は自殺

加藤和彦さんは、1975年に「サディスティック・ミカ・バンド」を解散すると、その後は、映画、歌舞伎、ゲーム、アニメの音楽を手掛けるほか、

2002年には、「ザ・フォーク・クルセダーズ」の期間限定での再結成、2006年には、木村カエラさんを迎えた「サディスティック・ミカ・バンド」の再結成、アルフィーの坂崎幸之助さんとデュオ「和幸」(かずこう)を結成するなど、第一線で活動を続けていたのですが、

そんな中、2009年10月17日、長野県北佐久郡軽井沢町のホテルで首を吊って死亡しているのが発見されました。

軽井沢署によると、加藤和彦さんは、2009年10月16日、1人でホテルを訪れると、1泊2日の予定で宿泊していたそうですが、

10月17日午前8時半頃、

客室の男性と連絡が取れない。室内を確認してほしい

と、ホテルから警察署に連絡があったそうで、

10月17日午前9時半ごろ、駆けつけた警察署員とホテル従業員が部屋に入ると、浴室内で普段着姿のまま亡くなっている男性が発見され、軽井沢署で、関係者により、この男性が加藤和彦さんであることが確認されたのだそうです。

(死亡時刻は10月16日夜と考えられています)

加藤和彦の自殺理由は?

加藤和彦さんの友人で精神科医の北山修さん(元「ザ・フォーク・クルセダーズ」)や親しい関係者によると、

加藤和彦さんは、生前、うつ病に苦しんでいたそうで、北山修さんは、加藤和彦さんから心身の不調を随分前から相談されていたといいます。

そんな中、北山修さんが、知人の精神科医に加藤和彦さんを紹介し、その方に主治医をお願いしていたそうですが、加藤和彦さんは主治医に、「創作ができない」と訴えていたといいます。

また、北山修さんのほかにも、特に限られた親しい人たちは、加藤和彦さんの精神的な異変に気がついていたそうで、そのようなこともあり、北山修さんは、2009年10月15日の夜、加藤和彦さんと会って話をする約束をしていたそうですが、

(その前々日、加藤和彦さんは、京都に行き、アマチュア時代の「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバーだった平沼義男さんに会い、食事をしながら歓談していたそうです)

約束の日、加藤和彦さんからメールが届き、会う場所を六本木のイタリア料理店に指定されたそうで、

北山修さんは、加藤和彦さんのことが心配だったことから、イタリア料理店でワインを飲みながら、というのはふさわしくない気がし、まずは真面目に話をしようと、その旨を加藤和彦さんに伝えると、

加藤和彦さんは、北山修さんと食事をすること自体キャンセルしてきたそうで、

北山修さんは、

「母の具合が悪いから京都に行く」というのがキャンセルの理由でした。後になってから考えると、彼としては、私と楽しく食事をして、それを格好よく、別れの挨拶にしたかったのかもしれません。

と、語っています。

ちなみに、北山修さんら加藤和彦さんと親しい関係者は、2009年10月16日、加藤和彦さんが、突然、消息を絶ったことから、加藤和彦さんの六本木のマンションに集まったそうですが、加藤和彦さんがどこへ行ってしまったのか全く見当がつかず、

ふと、北山修さんが、京都のホテルではと思い立ったそうですが、個人情報などの問題もあり、分からずじまいで、結局、翌17日、軽井沢のホテルで加藤和彦さんが遺体となって発見されたのだそうです。

加藤和彦は遺書を親しい友人らに郵送していた

実は、加藤和彦さんは、北山修さんら親しい友人らに遺書を書いていたそうで、

2009年10月17日(加藤和彦さんが遺体で発見された当日)、郵送で遺書が届いたといいます。

そして、そこには、

これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい

との趣旨が綴られていたそうですが、

音楽ジャーナリストの湯浅明氏は、

(2002年に「ザ・フォーク・クルセダーズ」を再結成した時)長いこと音楽をやっていると、聞かせようとか、売ろうとかいう呪縛が無意識にある。

フォークルの名をつかうと、楽しみながら好きなものを作れる-ということでした。ヒットメーカー、プロデューサーとしての重責。売るということのプレッシャーを常に感じていたのだと思う

ご自分でコレクションしていたギターの弦を毎日張り替えていた。加藤さんの本質は、熱いうちにやる瞬間芸、テンションの高さにあった。

それが、枚数的なことで評価をされてしまう今の時代のペースに合わなくなったのかもしれない。いい作品を作って、ひとりでも多くの人に楽しんでもらいたいと常に思っている方だった

と、加藤和彦さんが2000年代に入って音楽的葛藤と闘っていたことを明かしています。

(加藤和彦さんの葬儀では、加藤和彦さんの遺体の頭のところに、遺影とホテルで書き残した遺書が置かれていたそうで、遺書は、参列者が読むことができるように飾ってあったそうです)

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加藤和彦の遺書全文

それでは、最後に、加藤和彦さんの遺書の全文をご紹介します。

Kazuhiko Kato



今日は晴れて良い日だ。こんな日に消えられるなんて素敵ではないか。私のやってきた音楽なんてちっぽけなものだった。世の中は音楽なんて必要としていないし、私にも今は必要もない。創りたくもなくなってしまった。死にたいというより、むしろ生きていたくない、生きる場所がない、と言う思いが私に決断をさせた。

 どうか、お願いだから騒がないで頂きたいし、詮索もしないで欲しい。ただ、消えたいだけなのだから…

平成二十一年十月十六日

加藤和彦 K.K.(サイン)

現場の方々にお詫び申し上げます。面倒くさいことを、すいません。ありがとう。

「加藤和彦の最初の妻・福井ミカとの馴れ初めは?結婚後の夫婦関係は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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