1967年12月、「ザ・フォーク・クルセダーズ」として、シングル「帰って来たヨッパライ」でレコードデビューすると、ミリオンセラーの大ヒットとなり、2枚目のシングル「悲しくてやりきれない」もヒットした、加藤和彦(かとう かずひこ)さんですが、「ザ・フォーク・クルセダーズ」は1年で解散していたといいます。
今回は、加藤和彦さんの若い頃(「ザ・フォーク・クルセダーズ」時代)の活動や経歴を時系列でご紹介します。
「加藤和彦は大学3年でザ・フォーク・クルセダーズを解散する予定だった!」からの続き
加藤和彦は20歳の時に「帰って来たヨッパライ」が大反響となり1年だけ音楽活動をするつもりだった
「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散記念にと、300枚自主制作したアルバム「ハレンチ」が10枚しか売れず、製作費の30万円すら回収できなかったことから、
メンバー3人(加藤和彦さん、北山修さん、平沼義男さん)で、収録曲の「帰ってきたヨッパライ」を流してもらえないかと、ラジオ局をお願いして回り、ラジオ関西で「帰ってきたヨッパライ」を流してもらうと、
まさかの大反響を呼び、一躍、時の人となった「ザ・フォーク・クルセダーズ」は、各レコード会社から、再結成とプロデビューの話を持ちかけられるようになったそうですが、
当初、加藤和彦さんは、就職先(コック)も決まりかけていたため、再結成もプロデビューもする気はなかったといいます。
ただ、北山修さんに連日説得され、
それでは一年だけなら
との条件で受け入れたそうで、
加藤和彦さんは、龍谷大学経済学部を中退して、東芝音楽工業株式会社と契約し、1年限りの音楽活動をすることにしたのだそうです。
加藤和彦は20歳の時に「ザ・フォーク・クルセダーズ」として「帰って来たヨッパライ」がミリオンセラーとなる大ヒット
すると、1967年12月25日、東芝音楽工業(後に、「東芝EMI」⇒「EMIミュージック・ジャパン」⇒「ユニバーサル ミュージック」)の洋楽レーベル・キャピトルレコードからリリースされた「帰って来たヨッパライ」は、あっという間にヒットチャートを駆け上ったそうで、
1968年2月15日には、オリコンチャート史上、初のミリオンセラー(売上100万枚)を達成したのでした。
(「帰って来たヨッパライ」は、その後、1978年10月までに131万枚を売り上げ、最終的には、累計売上200万枚に達するメガヒットとなっています)
「帰って来たヨッパライ」
加藤和彦は20歳の時に「ザ・フォーク・クルセダーズ」としての2枚目のシングル「イムジン河」が発売中止となっていた
そんな「ザ・フォーク・クルセダーズ」は、1968年2月には、2枚目のシングルとして、引き裂かれた南北朝鮮を歌った曲「イムジン河」をリリースする予定となっていたそうですが・・・
訳詞を巡ってクレームがついたことから、発売日の直前(前日)に発売中止となってしまったそうで、出荷寸前だったレコードは、すべて回収・破棄されることになってしまったといいます。
加藤和彦は20歳の時に「イムジン河」の代わりの曲を急遽作るよう言われていた
そんな中、加藤和彦さんは、ニッポン放送の重役・石田達郎氏から「会議だ」と急に呼び出され、重役室で「イムジン河」が発売できなくなったことを告げられると、すぐに代わりの曲を作るように言われたそうで、
加藤和彦さんは、
ギターがないと作れない
と、答えたそうですが・・・
部屋にはしっかりギターが用意されていたそうで(笑)、加藤和彦さんは、観念して、重役室で曲を作ることになったのだそうです。
(ほとんど軟禁状態だったそうです)
そうは言っても、すぐに曲ができるはずもなく、部屋をウロウロしつつ、ウィスキーなどを物色していると、残りの時間がわずかとなってしまい、
やむなく、譜面に向かい、「イムジン河」のメロディを譜面に書き、音符を逆に辿ってみると、イメージが湧いてきて、10分ほどで出来上がったそうで、
加藤和彦さんは、この時のことを、
僕の部屋使っていいから、って会長室に入れられて、3時間あげるからって鍵閉められて(笑)。
といってもひらめかないから、「イムジン河」のメロディを拾って譜面に書いてて、これ、音符逆からたどるとどうなるかなって遊んでたの。そこからインスパイアされてできた。実際には「イムジン河」の逆のメロディでもなんでもないんだけど。
と、語っています。
加藤和彦は20歳の時に2枚目のシングル「悲しくてやりきれない」を3時間で完成(作曲)させていた
さておき、加藤和彦さんが会長室に入ってから3時間後、石田達郎氏が部屋に戻ってきたそうで、
加藤和彦さんは、石田達郎氏に、そのまま、詩人のサトウハチローさんの家に連れて行かれ、初対面のサトウハチローさんに作詞のお願いをすると、
約1週間後には、「悲しくてやりきれない」というタイトルの歌詞が出来上がってきたそうですが・・・
加藤和彦さんは、自然の風景を眺めながら、ただ嘆きを綴っただけの歌詞に、
え、こんな歌詞でいいの?
と、思ったといいます。
ただ、試しに歌ってみると、まるで、最初から詞があったかのように、一字一句、メロディにぴったりと当てはまっていたそうで、加藤和彦さんは大変驚いたのだそうです。
こうして、「イムジン河」が発売中止となってわずか1ヶ月後の1968年3月21日、2枚目のシングル「悲しくてやりきれない」をリリースすると、この曲もヒット。
「悲しくてやりきれない」は、その後、数多くのアーティストにカバーされ、後世に残る名曲として、現在も歌い継がれています。
「悲しくてやりきれない」
加藤和彦は21歳の時に「ザ・フォーク・クルセダーズ」を解散
ただ、「ザ・フォーク・クルセダーズ」は、同年(1968年)7月1日には、「ザ・ズートルビー」名義で、「水虫の唄」をリリースしたものの、
同年10月17日、当初の予定通り、1年で解散となったのでした。
(ただ、解散後の同年(1968年)12月5日には、「青年は荒野をめざす」(作曲・加藤和彦さん、作詞・五木寛之さん)が「ザ・フォーク・クルセダーズ」の最後のシングルとしてリリースされています)
「【画像】加藤和彦の若い頃(ソロ時代)は「あの素晴しい愛をもう一度」がヒット!」に続く
「ザ・フォーク・クルセダーズ」。
1968年に「ザ・フォーク・クルセダーズ」を解散し、翌1969年に「僕のおもちゃ箱」でソローデビューを果たすと、以降、ソロ活動をする中、1971年4月、北山修さんと連名で、「あの素晴しい愛をもう一度」をリリースすると、ロ …