「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「千と千尋の神隠し」など、数多くのアニメ作品をヒットさせてきた、宮崎駿(みやざき はやお)さんですが、

実は、幼い頃から絵を描くことが得意で、6歳の時、手塚治虫さんの漫画「新寶島」を読んで衝撃を受け、漫画家を志すようになるも、大学在学中には、多くの出版社に描いた漫画を断られて自信を失っていたそうで、そんな中、かねてから関心のあったアニメーターを志すようになったといいます。

今回は、宮崎駿さんの、幼少期(生い立ち)から東映動画に入社するまでをご紹介します。

宮崎駿

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宮崎駿が幼い頃は実家が軍需産業で裕福な家庭で育つもそれ故の負い目が刻まれていた

宮崎駿さんは、軍需産業関連の仕事をする裕福な家庭の次男として東京で誕生すると、戦時中は宇都宮に疎開するも、4歳頃、ここでも空襲を受け、トラックで避難したそうですが、

その際、宮崎駿さん一家のトラックは、助けを求める親子を見捨てて走り去ったそうで、軍需産業で儲けた親の下で裕福に育ったことへの負い目が、幼心に深く刻まれたそうです。

宮崎駿の少年時代は母親が病気だったことで神経過敏で引っ込み思案な性格だった

また、宮崎駿さんは、少年時代、お母さんが病気で、十分な愛情を受けられず、不安を抱えながら育ったそうですが、お母さんに”良い子”を演じ続けたそうで、

その結果、本音を言えなくなり、神経過敏で引っ込み思案な性格になってしまったそうで、着る服が変わるだけでも、抵抗があるほどだったといいます。

宮崎駿は6歳の時に手塚治虫の漫画「新寶島」が心の拠り所となっていた

ただ、絵はとても得意だったそうで、6歳の時、手塚治虫さんの漫画「新寶島」(1947年刊)を読み、大きな衝撃を受けると、

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それ以降、この作品が、宮崎駿さんの心の拠り所となり、手塚治虫さんを漫画家として深く敬い、まるで神のように崇拝するようになったのだそうです。

宮崎駿は高校3年生の時に東映映画「白蛇伝」を観て感動しアニメーションに興味を持つようになっていた

そんな宮崎駿さんは、中学卒業後、高校は進学校に進学したそうで、ここでは真面目な生徒だったそうですが、

内心では、自分や社会への反発、両親からの自立願望を抱き、暗くシュールな漫画を描いていたそうで、

そんな中、高校3年生の時、東映映画「白蛇伝」を観て感動し、自分は、純粋に面白い作品を作りたいのだと気がつき、アニメーションに興味を持つようになったのだそうです。

宮崎駿は大学時代は創作活動に打ち込みつつ政治への関心も高めていた

こうして、宮崎駿さんは、漫画家を志望し、高校卒業後は、芸術系の大学へ進学することを希望していたそうですが、お父さんに反対され、学習院大学政治経済学部へ進学したそうで、

学習院大学在学中は漫画を描き続けながら、児童文学サークルで人形劇の企画なども行い、創作活動に打ち込んだのだそうです。

また、宮崎駿さんは、大学では安保闘争の影響を受け、政治への関心を高めると、両親との対立、自己主張が芽生えてきたそうで、この特、初めてお母さんに本音をぶつけることができたのだそうです。

宮崎駿は大学時代に漫画家を諦めアニメーターを志していた

とはいえ、肝心の漫画はというと、多くの出版社に断られ、なかなか、漫画家としての道を開くことができず、自信を失っていったそうですが、

やがて、かねてから関心のあったアニメーションに表現の可能性を見出し、最終的にアニメーターの道を選んだのだそうです。

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宮崎駿は東映動画入社後に「雪の女王」を観てアニメーションを一生の仕事にすると決意していた

そんな宮崎駿さんは、大学卒業後の1963年、東映動画(現在の東映アニメーション)へ入社したそうですが、

当時の東映作品は創造性に欠けていたそうで、もともと好きだった漫画への未練が断ち切れずにいたといいます。

(テレビアニメは、「鉄腕アトム」により急速に普及するも、業界全体は過酷な労働環境と技術水準の低下に直面していたそうです)

しかし、入社1年目の労働組合主催の上映会で、旧ソ連のアニメ「雪の女王」を観ると深く感動したそうで、主人公の少女ゲルダの強い意志と心理描写に、アニメの表現力を再認識したそうで、

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宮崎駿さんは、今度こそ、アニメーションを一生の仕事にすると強く心に決めたのだそうです。

「【画像】宮崎駿の若い頃の作品(テレビ・映画)は?デビューからの経歴は?」に続く

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