1964年、23歳頃、「ガリバーの宇宙旅行」に制作スタッフとして参加し、たちまち演出家としての才能を発揮すると、以降、数多くの名作を発表し、

2002年には、「千と千尋の神隠し」で「アカデミー賞長編アニメ映画賞」、2005年には、「ハウルの動く城」で「ニューヨーク映画批評家協会賞アニメ映画賞」、2013年には、「風立ちぬ」で「ニューヨーク映画批評家協会賞アニメ映画賞」ほか、数多くの賞を受賞するなど、日本のみならず、世界中の人々に大きな影響を与えている、宮崎駿(みやざき はやお)さん。

今回は、宮崎駿さんの若い頃(デビュー以降)から現在までのアニメ作品(テレビ・映画)や経歴を時系列でご紹介します。

宮崎駿

「宮崎駿の生い立ちは?実家は軍需産業で裕福も母親が病気で不安を抱えていた!」からの続き

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宮崎駿は23歳の時にアニメ「ガリバーの宇宙旅行」で演出家としての才能を発揮していた

漫画家への未練を残す中、旧ソ連アニメ「雪の女王」に感銘を受け、アニメーターとして生きる決意を固めた宮崎駿さんは、

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1964年、23歳の時には、東映動画(現在の東映アニメーション)で「ガリバーの宇宙旅行」(1965年公開)に、制作スタッフとして参加すると、ロボットが人間に生まれ変わるという自身の提案を作画し、早くも演出家としての才能を発揮しています。

宮崎駿は24歳~27歳の時に制作に参加したアニメ「太陽の王子 ホルスの大冒険」が高い評価を受けていた

そして、続く、1965年~1968年(宮崎駿さん24歳~27歳)には、アニメ「太陽の王子 ホルスの大冒険」で、本格的に長編アニメ制作に関わると、高い評価を受けたのでした。

宮崎駿は28歳~29歳の時に初のオリジナル漫画作品「砂漠の民」で残酷でリアルな描写をしていた

一方、1969年9月~1970年3月に発表した、初のオリジナル漫画作品「砂漠の民」では、子供向けとは思えないほどの残酷でリアルな描写が展開され、宮崎駿さん自身も後に、漫画と映画では表現の影響力が異なると語っているのですが、

この「砂漠の民」は、後の「風の谷のナウシカ」や「シュナの旅」に繋がる、宮崎作品の原点ともなる作品となっています。

宮崎駿は30歳の時に「長くつ下のピッピ」のアニメ化の企画に参加していた

また、宮崎駿さんは、1969年から、「週刊少年少女新聞」で、シリアスな漫画「砂漠の民」を連載するかたわら、「長靴をはいた猫」「どうぶつ宝島」といった冒険漫画も手がけていたのですが、

1971年、30歳の時には、スウェーデンの児童文学「長くつ下のピッピ」のアニメ化企画に参加するため、高畑勲さん、小田部羊一さんと共に、東映動画を退社して、Aプロダクションへ移籍。

そして、制作では、日常の細かな動作や行動表現にこだわり、キャラクターの歩き方や仕草まで丁寧に考察していたそうですが、最終的には、原作者の許可が下りず、企画は中止になってしまったといいます。

それでも、この過程で生まれたアイディアや表現手法は、「パンダコパンダ」「アルプスの少女ハイジ」「魔女の宅急便」など、後の作品に受け継がれ、大きな財産となったのでした。

宮崎駿は30歳の時にテレビアニメ「ルパン三世」を大ヒットさせていた

そんな宮崎駿さんは、同年(1971年)、あの「ルパン三世」のテレビアニメの制作にも携わっています。

実は、当初、「ルパン三世」は、「日本初の大人向けアニメ」として放送されるも、当時の家庭の倫理観にそぐわない内容や雰囲気が原因で視聴率が低迷して、打ち切り寸前の状況になっていたそうで、

「ルパン三世」第1シリーズ
「ルパン三世」より。テレビ第1シリーズ。

制作現場では、作品の方向性を巡って対立が起こって、演出の大隅正秋さんが降板し、その後、作画監督の大塚康生さんの依頼で、宮崎駿さんと高畑勲さんが演出を担当することになったのだそうです。

そこで、宮崎駿さんと高畑勲さんが、原作のハードボイルドな雰囲気にコミカルさを加え、キャラクターも親しみやすく再構成すると、その甲斐あって、視聴率はやや改善。

それでも、番組は全23話で終了したそうですが、再放送では、視聴率20%と高視聴率を記録したそうで、これをきっかけに第2シリーズが制作され、”宮崎ルパン”は後に高く評価されるようになったのでした。

宮崎駿は31歳の時に子供向け映画「パンダコパンダ」を制作

また、宮崎駿さんは、翌年の1972年、31歳の時には、大塚康生さん、高畑勲さん、小田部羊一さんらとともに、子ども向け映画「パンダコパンダ」を制作しているのですが、

この「パンダコパンダ」は、後の「となりのトトロ」の原型となったといいます。

「パンダコパンダ」
「パンダコパンダ」より。

宮崎駿が33歳の時にテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」が大ヒット

そして、1974年、33歳の時には、テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」で、全カットの場面設定、画面構成(レイアウト)を担当すると、

「アルプスの少女ハイジ」は、最高平均視聴率26.9%となる大ヒット記録しています。

宮崎駿は37歳の時にNHKのテレビアニメ「未来少年コナン」で監督デビューも視聴率は振るわなかった

ただ、1978年、37歳の時、実質、監督デビューとなった、NHKのテレビアニメ「未来少年コナン」は、視聴率が振いませんでした。

「未来少年コナン」
「未来少年コナン」より。

宮崎駿は38歳の時に映画「ルパン三世 カリオストロの城」で監督を務めるも興行成績が振るわず失敗に終わっていた

そして、その後も、宮崎駿さんは、1979年、38歳の時、先輩の大塚康生さんに誘われ、映画「ルパン三世 カリオストロの城」の監督を引き受けているのですが、

(当初は乗り気ではなかったものの、最終的に引き受けたのだそうです)

当時の「ルパン三世」の人気シリーズとは作風が異なり、SFアニメ全盛期とも重なったため、興行的には配給収入3.5億円と振るわず失敗に終わってしまい、

宮崎駿さんは、しばらくの間、映画制作から遠ざかることとなったのだそうです。

実は、「ルパン三世 カリオストロの城」は、わずか4ヶ月半という短期間での制作で、初めて体力的に極限を感じる中、時間不足により理想の完成度には届かず、

妥協の産物だった

そうで、宮崎駿さんは、精神的にも大きなダメージを受けたのだそうです。

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宮崎駿は41歳の時に漫画「風の谷のナウシカ」の連載を開始していた

こうして、アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」が興行的に失敗に終わったことで、”客を呼べない監督”とされ、引退を考えるまで追い込まれたという宮崎駿さんは、絵本作家や漫画家への転身を模索していたそうですが、

そんな中、宮崎駿さんの才能を高く評価していた「アニメージュ」編集部の鈴木敏夫さんから、宮崎駿さんのオリジナル企画をアニメ化するため、”原作付き”のハクをつけようと、「アニメージュ」での連載漫画の執筆を提案されたそうで、

宮崎駿さんが、”アニメではできない作品を描く”ことを条件に承諾し、1982年、41歳の時、漫画「風の谷のナウシカ」の連載を開始すると、

「風の谷のナウシカ」は、”腐海”という独自のSF世界観が話題を呼び、読者の支持を獲得。

これを受け、「風の谷のナウシカ」は、徳間書店の社長・徳間康快氏の後押しや、宮崎駿さんの弟が所属する博報堂のプロデュースにより、1984年にアニメ映画化が決定し、宮崎駿さんは、再び、映画の世界へと戻ることとなったのでした。

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宮崎が43歳の時にアニメ映画「風の谷のナウシカ」が大ヒットするも引退を口にしていた

こうして、「風の谷のナウシカ」は、漫画連載から約1年で映画化が決定したのですが、制作期間はわずか9ヶ月と短く、宮崎駿さんは過酷な労働環境の中で作品づくりに取り組んだそうで、

(土日も休まず、朝9時から深夜4時まで作業し、食事も数分で済ませるほどの生活だったそうで、そのうえ、時間不足により絵コンテの大幅な変更も余儀なくされたのだそうです)

当初予定していた「巨神兵と王蟲の戦闘シーン」もカットされるなど、妥協もあったそうですが、

1984年3月に公開されると、エコロジーブームと「カリオストロの城」の再評価の追い風もあって、「風の谷のナウシカ」はヒットし、それまで無名だった宮崎駿さんは、一躍、注目を集めたのでした。

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とはいえ、制作中はスタッフとの軋轢(あつれき)や精神的な苦痛も大きく、

何の喜びもないまま終わった

そうで、

宮崎駿さんは、

もう二度と(アニメーションは)作らない

と、再び、引退を口にしていたといいます。

「風の谷のナウシカ」
「風の谷のナウシカ」より。

お読みいただきありがとうございました

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