1967年、15歳の時、「甘ったれたいの」でレコードデビューした時は全く売れなかったものの、翌1968年に「ピンキーとキラーズ」を結成すると、デビュー曲「恋の季節」がダブルミリオンの大ヒットとなった、今陽子(こん ようこ)さん。

そんな今陽子さんは、ソロに転向した1972年以降も、「さよならの朝」「熱風」「夜が終る時」など数多くのシングルをリリースするなど精力的に音楽活動を展開すると、

28歳の時には、単身、ニューヨークに留学して、ダンス、歌、英会話を学び、帰国後は、レビュー、ミュージカル、ライブコンサートなど、幅広い活動を続け、70代の現在も、現役歌手として活動を続けています。

今回は、今陽子さんの若い頃(レコードデビュー)から現在までの代表曲や経歴を時系列でご紹介します。

今陽子

「今陽子の生い立ちは?幼少期は?中学生でスカウトされて芸能界入り!」からの続き

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今陽子は15歳の時に「甘ったれたいの」で歌手デビューするも全く売れなかった

中学1年生の時、スカウトされると、中学2年生の時、単身上京して、作曲家・いずみたくさんに師事することになった今陽子さんは、約1年間、レッスンを受けながら、CMソングを歌うなどの活動をし、

1967年6月、15歳の時には、ビクターレコードから「甘ったれたいの」で歌手デビューを果たしたそうですが・・・

全く売れなかったそうです。

「甘ったれたいの」
「甘ったれたいの」より。

(この頃、同じ「オールスタッフプロダクション」に所属していた佐良直美さんや由紀さおりさんが次々に大ヒットを飛ばしており、今陽子さんは強い挫折感を味わったそうです)

今陽子は16歳の時「ピンキーとキラーズ」としてデビュー曲「恋の季節」がダブルミリオンの大ヒット

しかし、今陽子さんは、1968年、16歳の時、キングレコードに移籍して、ジョージ浜野さん、エンディ山口さん、ルイス高野さん、パンチョ加賀美さんの4人と共に「ピンキーとキラーズ」を結成し、同年7月20日、「恋の季節」でデビューすると、

いきなり、17週連続オリコン1位で、270万枚を売り上げる大ヒットを記録。

実は、作曲家のいずみたくさんが、今陽子さんを売り出すために、グループにすることを企画し、男性陣4人と共に「ピンキーとキラーズ」を結成させたのだそうです。

「恋の季節」
「恋の季節」

ちなみに、当時、音楽業界では、「背の高い女性は売れにくい」というジンクスがあり、ルイス高野さんらメンバーたちは、当初、167センチの今陽子さんに不安を感じていたそうでが、

今陽子さんの歌声を聴き、その声量の大きさとリズム感の良さや、英語歌詞を上手に歌えたことなどから、売れることを確信したといいます。

今陽子は17歳の時に「ピンキーとキラーズ」として「涙の季節」「七色のしあわせ」「星空のロマンス」がヒット

そんな「ピンキーとキラーズ」は、翌年の1969年1月にも、4枚目のシングル「涙の季節」がオリコン1位を獲得すると、

その後も、

  • 1969年4月20日にリリースした「七色のしあわせ」
    「七色のしあわせ」
    「七色のしあわせ」
  • 1969年8月20日にリリースした「星空のロマンス」
    「星空のロマンス」
    「星空のロマンス」

などがヒットしています。

今陽子は21歳の時に「ピンキーとキラーズ」脱退しソロに転身していた

ただ、そんな「ピンキーとキラーズ」も、以降はトップ10から遠ざかり、今陽子さんは、1972年2月、「ピンキーとキラーズ」を脱退すると、ソロ活動をスタート。

すると、すぐにミュージカル「死神」の主演を務めることになり、今陽子さんは、もともと、ミュージカルがやりたかったことから、満足していたそうですが、

世間は、「ピンキーとキラーズのピンキー」 としてしか見てくれず、アーティストとして見てほしい今陽子さんにとって、そのギャップがとてもつらかったといいます。

そんな中、今陽子さんは、22歳の時、逃げるように結婚したそうですが、結局26歳で離婚してしまい、結婚も仕事もうまくいかず、落ち込む毎日だったそうで、

仕事の依頼はあったものの、お酒の席の仕事ばかりだったそうで、アーティストとしては虚しく、30歳になる前に大改革をしたいと思い、28歳の時、思い切って、ニューヨークに留学することにしたのだそうです。

今陽子は28歳の時にニューヨークに留学し歌やダンスを基礎から学んでいた

こうして、ニューヨークに留学した今陽子さんは、歌やダンスなどを基礎から学び直したそうで、

それから2年後には、ニューヨークの大手レコード会社やエージェントからスカウトが来るようになったほか、ミュージカルのオーディションにも合格するまでになり、

さらには、アパート探しから始まって、何もかも一人でやらなければならない生活を送るうち、精神的にも鍛えられそうで、アーティストとしての技術の向上と共に、精神的なタフさも培うことができたのだそうです。

今陽子は30歳の時に帰国するとレビュー、ミュージカル、ライブコンサートなど幅広く活動

そして、2年の留学を終えて帰国すると、その後は、レビュー、ミュージカル、ライブコンサートなど、幅広く活動し、ジャズ、ラテン、シャンソンなど多彩なジャンルの曲を歌唱しています。

今陽子は56歳の時に「ピンキーとキラーズ」を再結成していた

また、近年、今陽子さんは、昭和歌謡のリバイバルブームの中、再び注目されるようになり、バラエティ番組や音楽番組への出演も増えると、

2008年7月30日には、36年ぶりにオリジナルメンバーで「ピンキーとキラーズ」を再結成しています。

ちなみに、「ピンキーとキラーズ」の男性メンバーは、結成時、作曲家のいずみたくさんから、

ピンキーが20歳になったら、その時ピンキーとキラーズが売れていても売れていなくても、この子はソロで活動させる

と、今陽子さんの今後について聞かされていたそうですが、

今陽子さんは、この話を知らされていなかったそうで、

「私がピンキーとキラーズを脱退になったのは、自分の努力が足りなかったせい」と、裏事情を知る最近まで責任を感じていた

と、語っていたといいます。

今陽子は66歳から認知症の母親の介護をしていた

ところで、今陽子さんは、2022年、芸能活動と並行し、95歳で認知症のお母さんの介護をしていることを明かしています、

今陽子さんは、長年、お母さんと二人三脚で生活を送り、お母さんに芸能活動を支えてもらっていたそうですが、

2017年2月、90歳を迎えた直後、これまで、炊事や帳簿管理をしてくれていたお母さんが、突然、何も手につかなくなって、椅子に座ったままボーっとするなど、認知症の兆しが現れ始めると、次第に、物忘れや失敗が増え、生活が一変したのだそうです。

そんな中、当初、今陽子さんは、誰にも相談できず悩んでいたそうですが、信頼する仲間の助言で要介護認定を受け、介護サービスの利用を開始すると、ケアマネジャーとも良好な関係を築き、仕事と介護を両立できるようになったそうですが、

お母さんとの衝突は絶えず、今陽子さんは、心身の負担が増したことで狭心症を発症し、手術を受けることになってしまったといいます。

そこで、

(お母さんへの)接し方を変えよう

と決意し、怒るのをやめてお母さんとの会話を楽しむようになると、お母さんの表情が明るくなるなどの変化が見られたそうですが・・・

お母さんは、95歳を過ぎた頃から、さらに認知症の症状が進んでいるそうで、

(それでも、今陽子さんは、大好きなお母さんをずっと見守りたいと思っているとのことです)

今陽子さんは、この経験を元に、著書「認知症の母が劇的回復を遂げるまで」を出版しています。

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今陽子のシングル(ソロ)

それでは、最後に、今陽子さんのシングル(ソロ)をご紹介しましょう。

  • 1967年「甘ったれたいの」
  • 1972年「さよならの朝」
    「さよならの朝」
    「さよならの朝」
  • 1972年「熱風」
    「熱風」
    「さよならの朝」
  • 1972年「夜が終る時」
    「夜が終る時」
    「夜が終る時」
  • 1973年「夜明けの港」
  • 1973年「女ともだち」
  • 1974年「さよならの嵐」
  • 1974年「私の場合」
  • 1974年「街を出る日に」
  • 1975年「東高円寺」
  • 1975年「風のまつり」
  • 1976年「みちづれ」
    「みちづれ」
    「みちづれ」
  • 1977年「追憶」
  • 1978年「誘惑」
  • 1980年「愛・それはふれあい」
  • 1983年「ハーバーライト・ブルー」
  • 1991年「恋の季節」
  • 1992年「グッドバイ」

を、リリースしています。

「今陽子は老老介護のなか救急搬送され緊急手術していた!原因は?現在は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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