ロックバンド「ARB」のヴォーカルとしての活動を経て、俳優に転身された、石橋凌(いしばし りょう)さん。「ローグアサシン」など、ハリウッド映画にも出演されています。
アマチュアバンド活動に専念
石橋さんは、高校生の時から、
バンド活動をされており、
高校2年生の時には、
福岡にある「照和」という、
ライブハウスに出演されていました。
バンドに憧れがあり、
早くプロになりたいと思っておられたそうです。
アルバイトをしながら、バンド活動を続け、
プロになるチャンスを待っておられたのだとか。
そんな折、2回ほど、
東京からお誘いがあったそうですが、
2回ともバンドではなく、
石橋さん一人でくるようにと言われてしまい、
丁寧にお断りされたのだそうです。
バンドへの憧れがあったため、
どうしてもバンドで上京したかったからでした。
しかし、当のバンドのメンバー達は就職され、
結局は石橋さん一人になってしまい、
バンドは自然消滅してしまったのでした。
バンドに対して、
熱い気持ちを持っておられたのは、
石橋さんだけだったのですね・・・
しかも、その頃、石橋さんは、
イタリアンレストランでバイトをされていたのですが、
ピザを作る腕前が、
職人レベルになっていたとのことで、
ミュージシャンを諦めて、
コックになろうかと思い始めておられたというのです。
マスターにも、
自分の修行したイタリアの店に送り込むから行っておいで。
と言われるほど、
コックとして期待をされていたそうです。
そんな時、石橋さんに、
KBC(九州朝日放送)のラジオディレクターの方から、
電話がかかってきます。
それは、
今こういうバンドができつつあるんだけど、
オーディションを受けてみない?
というものでした。
ARB!
そして、1977年、
石橋さんはオーディションを受けられ、見事合格。
ロックバンド「ARB」に、ヴォーカルとして加入され、
念願のプロになることができたのでした。
そして、翌年の1978年、
シングル「野良犬」で、デビューを果たされています。
石橋さんは、「音楽」をしたいのではなく、
「バンド」がやりたかったということで、
見事にその夢を叶えられたのでした。
独立
しかし、石橋さんらは、それから1年半で、
当時の所属事務所を、解雇されてしまいます。
それは、
「社会的なことや政治的なことは、一切歌わないでくれ」
と事務所から言われたことに対して、
石橋さん達メンバーが、
きっぱり拒否したことが原因だったようです。
石橋さんが小中学生のときに影響を受けた、
ビートルズや、ストーンズ、CCRなどは、
アルバム1枚の中で、あらゆるテーマを歌っていました。
社会的なこと、政治、戦争、男女のラブソング・・・
石橋さんにとっては、それがロックであり、
表現したいことだったのです。
厳しい生活
石橋さんら「ARB」は、事務所を解雇され、
何度かのメンバーの入れ替えをしながら、
日本全国のライブハウスを、
ワンボックスカーで回られる日々。
バンド活動ももちろんですが、生活の方も、
プロデビューしてからの方が、
アマチュア時代より大変だったそうです。
アマチュア時代は、
アルバイトもされていましたし、
物価の安い九州で暮らされていたため、
生活はなんとかなったのですが、
プロデビューしてからは、
どうにもならなくなってしまったのでした。
石橋さんは、生まれて初めて、
質屋に行かれるなどして、
なんとかお金を工面されていたようですが、
1年半、カップ麺の生活だったそうです。
そんな厳しい生活の中、
日本の音楽業界にも、
次第に失望されていったのだとか。
石橋さんは、
一人の人間が芸術や文化を生み出し、
それに共感する者がいて、お金が集まり、世に出る、
と考えられていました。
しかし、
日本はそうじゃなくて、
まずお金を集められそうな人を呼ぶ。逆転してるんですよね。
才能のある個人の力や一所懸命さは、蚊帳の外なんです。
石橋さんは、日本の音楽業界に、
失望してしまっていたのでした。
しかし、そんな石橋さんに、
再び転機が訪れます。
松田優作との出会い
それは、俳優の、
故松田優作さんとの出会いでした。
スポーツクラブで、
偶然、松田さんと出会った石橋さんは、
その後、ご自身の悩みを、
松田さんに相談されたのだそうです。
なぜ石橋さんは、出会ったばかりの松田さんに、
こんなプライベートなことを相談されたのでしょうか?
石橋さんは、その理由を、
直感的だがこの人しかいないと思った。
自分が抱えている悩みを相談できる方は。
とおっしゃっています。
俳優として
それからしばらくして、石橋さんは、
松田さんが監督を務められた映画「ア・ホーマンス」で、
山崎道夫役に大抜擢されたのでした!
(役者になって)名前を売った方がいい。
と、松田さんから、
アドバイスを受けられたのだそうです。
演技経験のほとんどなかった石橋さんですが、
松田さんから厳しい演技指導を受け、
見事に役を演じきります。
そして、この映画で、
「キネマ旬報新人男優賞」を受賞されたのでした。
石橋さんは、これをきっかけに、
俳優業を始められ、
映画やドラマに出演されるのですが・・・
当時の石橋さんの中では、
まだ、ミュージシャンとしての比重が、
多くを占めていたようで、
ミュージシャンが俳優をしている、
という印象があり、
もし中途半端になるのなら、
俳優業を辞めようと思っていたのだそうです。
ハリウッドに進出
そんな中、松田さんが病に倒れ、
亡くなります。
そして、石橋さんは、
ハリウッドから松田さんに、
3本もの映画のオファーがあったことを、
ご家族から聞かれたのだそうです。
それを聞かれた石橋さんは、腹を決め、
ハリウッドに通用する日本人俳優になろうと
決意されたのでした。
そのため、音楽活動は封印。
ハリウッド志向だった松田さんの意志を継ぎ、
ハリウッドで通用する俳優になるべく、
石橋さんの活動が始まります。
石橋さんは、
34才で単身ハリウッドへ行き、
直接交渉したりもした。海外の作品を観てると、ヘンな日本人役が多いが、
原因は英語が出来ないことと、
製作サイドも日本のことを勉強していないから。このような現状が続いて、
いつまでも捻じ曲がった日本を伝えられるのは・・・
と、語っておられました。
その熱意が実を結んだのか、1995年には、
「クロッシング・ガード」でジャックニコルソンと共演、
石橋さんの演技がアメリカで認められ、
アメリカの映画俳優組合の会員にもなられたのでした。
再び音楽活動へ
石橋さんは、俳優としての確かな地位を確立され、
再び音楽に気持ちが向かれたようで、
1998年に「ARB」を復活。
しかし、2006年には脱退され、
2011年に、ソロアルバム「表現者」
を発表されています。
ちなみに「ARB」は現在活動停止中、
ということになっているそうですが、
石橋さんは解散とおっしゃっているようです。
バンドに憧れた青年時代を送られた石橋さんですが、
バンドとしてできる表現は、
もうやりきったと感じられたそうです。
そこで、「バンド」を卒業し、
現在は、「音楽」をやりたくなったのだそうです。
一旦バンドを捨て、俳優に転身し、
その地位を確立され、
再びバンドに戻られたことで、
何か見えてきたものがあったのでしょう。
さて、今後はどのような表現で、
私達を魅了してくれるのでしょうか?
表現者としての才能に恵まれた、
石橋さんの、さらなるご活躍を期待しています!!