35歳の時に、レオナルド熊さんと「コント・レオナルド」を結成すると、 社会を風刺したコントで、一躍、脚光を浴び、コンビ解散後も、名脇役として、数々の映画やテレビドラマで唯一無二の存在感を放ち続けている、石倉三郎(いしくら さぶろう)さん。
今回は、そんな石倉三郎さんの生い立ち(幼少期~役者を目指し上京)をご紹介します。

石倉三郎のプロフィール
石倉三郎さんは、1946年12月16日生まれ、
香川県小豆郡内海町(現・小豆島町)の出身、
身長170センチ、
体重65キロ、
血液型はA型、
学歴は、
大阪市立緑中学校卒業、
趣味は、料理、読書、
だそうです。
石倉三郎の本名は?芸名の由来は?
石倉三郎さんの本名は「石原三郎」というそうですが、東映時代、事務所に同じ「石原」姓の事務員がおり、事務所に電話がかかってきた際、呼び出しなどで混乱が生じていたことから、石倉三郎さんが名前を変えることになったそうで、
高倉健さんから一文字もらい、芸名を「石倉三郎」としたのだそうです。
石倉三郎が幼い頃は貧しい暮らしを強いられていた
石倉三郎さんは、戦後一人で大阪へ行って船場の仕出し屋で板前になっていたお父さんのもと、4人きょうだいの末っ子として小豆島で誕生したそうですが、
(石倉三郎さん一家は、太平洋戦争中、空襲で焼け出され、小豆島の親戚の家に間借りさせてもらっていたそうですが、石倉三郎さんは、そこの土蔵で誕生したのだそうです)
お父さんは、少しも仕送りをしてこなかったことから、一家は貧しい生活を強いられたそうで、
石倉三郎さんも、学校に給食費を払えずにいたそうですが、
ある時、担任の先生に、みんなの前で、
今月の給食費、三郎は払っていません
と、言われたことがあったそうで、
石倉三郎さんは口では言い表せないほど恥ずかしい思いをしたといいます。
石倉三郎が小学生の頃は映画が心の支えだった
そんな中、石倉三郎さんは、屈折した暗い少年になってしまったそうですが、
やがて、石倉三郎さんの長兄が映画館の映写技師をするようになり、お母さんも同じ映画館で切符のもぎりを始めると、石倉三郎さんも、その手伝いを始めたそうで、
(当時の映画館は畳敷きだったそうで、石倉三郎さんは座布団や煙草盆などを運んでいたそうです)
そのおかげで、石倉三郎さんは、毎日、チャンバラ映画などを観ることができたそうで、その映画のマネをして、人を笑わせることで、肩身の狭さを誤魔化していたそうです。
ちなみに、石倉三郎さんは、
特に三木のり平さんに憧れてね、どこかで「ああいうふうになりてえな」と思ってた。脇の脇でも、飯くらい食えるんだろう、って。
と、語っています。
石倉三郎は中学卒業後は次兄の勤める町工場に就職していた
その後、石倉三郎さんは、中学2年生の時、大阪・鶴見区に移り住んだそうですが、相変わらず貧しかったそうで、将来に何の希望も持てないまま、中学卒業後はすぐに次兄の勤めていた町工場に就職したそうですが、
サラリーマンをしたからといって、学歴もなく、出世の見込みもなかったことから、
夜間高校の卒業証書を手にしたら少しは人生違うんじゃないか
と考え、私立の定時制高校の入学試験を受けると、見事、合格。
ただ、お母さんには、
入学金が払えない
と、言われたそうで、泣く泣く、定時制高校は断念したのだそうです。
石倉三郎は20歳の時に役者になるため上京を決意していた
そんな中、石倉三郎さんは、20歳の時、町工場で営業部に欠員が出たことから、
専務に、
営業部員になれ。お前、忘年会や送別会でみんなを笑わせるじゃないか。あの調子で売ってこい
と、名古屋に行くように命じられたそうですが、
もともと人を笑わせることが好きだったという石倉三郎さんは、(石倉三郎さんいわく)自分がおもいしろいんだと勘違いしたそうで、
一か八か役者を目指し、東京に行ってやろう
と、これを機に、役者になろうと決意。
これに対し、お兄さんたちはカンカンに怒って猛反対したそうですが、お父さんが賛成してくれたことから、最終的には、お母さんに毎月仕送りすることを条件に、お兄さんたちも上京することを許してくれたのだそうです。
(お父さんは、昔、二枚目スターの鈴木傳明さんに憧れ、弟子入りしたくて家出したことがあったといいます)
「石倉三郎が若い頃(下積時代)は高倉健の紹介で東映の大部屋俳優になっていた!」に続く
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20代前半の頃は、高倉健さんの紹介で東映東京撮影所の大部屋俳優となり、東映の任侠映画にエキストラとして出演していたという、石倉三郎(いしくら さぶろう)さん。 今回は、石倉三郎さんの下積時代(東映の大部屋俳優時代)を高倉 …







