高校を3年で中退し、役者を目指して上京するも、なかなか芽が出ず、14年に渡って地方巡業すると、その後、お笑いに転向し、1981年、石倉三郎さんとのコンビ「コント・レオナルド」で大ブレイクを果たした、レオナルド熊(れおなるど くま)さん。
そんなレオナルド熊さんは、それまでに、コンビの結成と解消を繰り返し、相方の累計は20人を超えていたそうで、「コント・レオナルド」は、石倉三郎さんとのニ度目のコンビだったといいます。
今回は、レオナルド熊さんの、若い頃(高校中退後上京~「コント・レオナルド(ニ代目)」解散)についてご紹介します。

レオナルド熊のプロフィール
レオナルド熊さんは、1935年6月27日生まれ、
北海道樺戸郡新十津川町の出身、
血液型はAB型、
学歴は、滝川高校中退、
ちなみに、本名は「井上千蔵」(いのうえ せんぞう)で、旧芸名は「北海の熊」「熊田にげろう」「ラッキー熊」です。
レオナルド熊は高校を中退して役者を目指し上京するも14年間地方巡業をしていた
レオナルド熊さんは、1953年、高校を3年で中退後、役者になる夢を抱いて単身上京したそうですが、なかなか芽が出ず、
約14年間に渡って地方巡業を続けていたそうです。
レオナルド熊は35歳頃ストリップ劇場でコントをしていた
その後、レオナルド熊さんは、コメディアンに転向すると、浅草に定着し、ストリップ劇場で幕間コントをするようになったそうですが、
たこ八郎さんほか何人もの人とコンビを組むも、その度に、ギャラをピンハネし、ケンカ別れを繰り返していたといいます。
また、1970年には、そんなかたわら、副業として小料理店(おにぎり屋とも言われています)も経営したそうです。
レオナルド熊は44歳の時に石倉三郎とのコントコンビ「ラッキーパンチ」で人気を博していた
そんな中、1973年、38歳の時には、持病の結核が悪化し、治療に専念するため、5年間の入院を余儀なくされたそうで、この頃は、生活保護を受給していた時期もあったそうですが、
回復後の1979年、44歳の時には、弟子でコンビ「コント三冠王」の元相方だった城後光義さん(当時は「ユートピア」のホープ)からの紹介で、俳優出身で「チャップリンズ」を解散したばかりだった石倉三郎さんとコントコンビ「ラッキーパンチ」を組むと、たちまち人気を博します。
(「ラッキーパンチ」は、同じ事務所で師匠だったコントコンビ「ラッキー7」(関武志さんとポール牧さん)から名付けられたそうです)
レオナルド熊は45歳の時に石倉三郎に愛想を尽かされ「ラッキーパンチ」は1年弱で解散となっていた
ただ、やがて、レオナルド熊さんは、持病の結核が悪化して舞台に穴を開けることが多くなったそうで、それが原因で仕事が激減すると、相方の石倉三郎さんとの仲も悪くなっていったそうで、
ついに、石倉三郎さんに、
あんた、このままだと死んじゃうぜ?もうやめなよ。俺もやめるわ
と、言われ、「ラッキーパンチ」はたったの1年弱で解散。
ちなみに、石倉三郎さんは、この頃の「ラッキーパンチ」について、
(レオナルド)熊は持病の結核でしょっちゅう倒れるんですよ。その度に飯が食べれなくて疲れちゃいましてね
暮れに正月番組の収録でテレビ局を掛け持ちして、これでいい正月が迎えられるなと喜んでると、新年早々に倒れる。『笑点』の出演が決まってたのがパーですよ。地方の営業もキャンセル。またかよ、とガックリする。そんなことが何度もあってね
などと、語っています。
レオナルド熊は46歳の時に「コント・レオナルド」を結成するも相方のブッチー武者をイジメてノイローゼにし解散となっていた
その後、レオナルド熊さんは、弟子であるブッチー武者(武者博和)さん(後に「オレたちひょうきん族」でひょうきん懺悔室の神様)と「熊田うつぞう・にげろう」というコンビを組むと、
1981年には、「コント・レオナルド」(初代)と改名し、同時に、自身の芸名も「熊田にげろう」から「レオナルド熊」に改名するのですが、
(師匠であるポール牧さんの許可を得ないで無断で改名したため、ポール牧さんからは破門されたそうです)
レオナルド熊さんがブッチー武者さんを執拗(しつよう)にいじめたことから、ブッチー武者さんはノイローゼ気味となり、さらには、「花王名人劇場」出演直前、コント中の舞台で転倒して足を骨折し、休演せざるを得なくなってしまったそうで、
(レオナルド熊さんは、ブッチー武者さんに対し、足を骨折して休演となったことを責め、「指詰め」を迫ったとも言われています)
最終的には、城後光義(当時は「ゆーとぴあ」のホープ)さんと「花王名人劇場」のプロデューサー・澤田隆治さんが仲裁に入る形で、「コント・レオナルド」(初代)はコンビ解消となったのだそうです。
(ホープ(城後光義)さんは、西賀八さんの紹介でレオナルド熊さん(この時は熊田にげろう名義)の弟子になると、一時期は、「福岡ケンジ」名義で、レオナルド熊さんとコンビ「コント三冠王」として活動を共にするも、レオナルド熊さんからは、お金を徴収されたり、彼女を寝取られ、耐えられなくなって、3年後の1974年に独立したといいます)
レオナルド熊は46歳の時に石倉三郎と「コント・レオナルド」(二代目)を再結成していた
そんなレオナルド熊さんは、1981年、46歳の時には、既に芸能界を引退してトマト栽培の会社に勤務していた石倉三郎さんを呼び戻し、「コント・レオナルド」(ニ代目)を再結成しているのですが、
相方の石倉三郎さんは、その時のことを、
「テレビで見て、『へー、熊さん、またやってんだ』と思ったね。それから間もなく、熊さんから連絡があった。『武者がノイローゼになって逃げやがった。サブちゃん、また一緒にやらないか』って。
逃げるのは当然だよ。弟子にギャラをやる必要はないって、一銭も払わないんだから
と、語っています。
また、石倉三郎さんは、レオナルド熊さんからの誘いを一度は断っていたそうで、
もちろん断りましたよ。病弱なだけじゃなくて、金に汚いから、また嫌な思いをしたくないもの。すると、『花王名人劇場』のプロデューサー・沢田隆治さんが連絡してきた。10月に武道館でやる漫才大全集に熊と出てくれって。
心が動いたけど、トマト栽培の会社に誘ってくれた先輩に対して義理を感じてるから、やりますと言えない。まさに進退きわまったね。返事を延ばしていたから、武道館の公演には出られなかった。
すると、先輩が、『おまえ、芸人に戻れ』と言い出した。『俺も疲れちゃって、トマト栽培やめようと思ってる』ってね。正直、ホッとしました。それで熊さんとコンビ再結成したわけです。すぐネタ作りに入った
と、語っています。
レオナルド熊は46歳の時に石倉三郎との「コント・レオナルド」(二代目)が大ブレイクしていた
さておき、「コント・レオナルド」(二代目)は、テレビ番組「花王名人劇場」の「爆笑!!デスマッチ・ギャグ&ギャグ」で、再デビューすると、折からの漫才ブームに乗り、鋭い社会風刺のコントで、たちまち大ブレイク。
相方の石倉三郎さんによると、「コント・レオナルド」(ニ代目)を結成した1981年の年収は40万円だったそうですが、翌1982年には、年収が100倍の4000万円に跳ね上がったそうで、
ギャラは、レオナルド熊さん、石倉三郎さん、マネージャー(石井光三さん)で3等分したといいます。
ちなみに、営業のギャラは、当時、人気絶頂だった「ツービート」(ビートたけしさんとビートきよしさん)よりも高かったそうですが、その理由は、レオナルド熊さんは体が弱く、いつ倒れるか分からないというのが業界で有名だったことから、レオナルド熊さんの舞台に希少価値がついていたのだそうです。

「コント・レオナルド」時代の石倉三郎さん(左)とレオナルド熊さん(右)。
レオナルド熊が考案した独自のネタで「コント・レオナルド」(ニ代目)は人気を博していた
そんな「コント・レオナルド」(ニ代目)のネタは、全て、レオナルド熊さんが考えていたそうですが、
例えば、
- スリ稼業の父(レオナルド熊さん)が、銀行員となった息子(石倉三郎さん)に対し、「銀行のやっていることはスリよりも悪質だ」と諭す風刺的なコント
- 女子高生の父(レオナルド熊さん)が、教師(石倉三郎さん)から娘の「不純異性交遊」について聞かされた際、「まさか無償で相手をさせたわけではないだろうな」と問い詰める、倫理観のズレを突いたブラックなコント
といった、社会や道徳を斜めから捉えた不条理な設定が特徴的だったそうで、そんな独特な作風で当時の演芸界に一石を投じたといいます。
また、当時、若手芸人が牽引していた漫才ブームの中で、比較的ベテランの域にあったレオナルド熊さんが、政治、経済、世相を題材に、ナンセンスなコントで揶揄するスタイルは画期的で異彩を放っていたそうで、この独自の路線が、人々の注目を集め、人気を博した要因だったと言われています。

「コント・レオナルド」時代のレオナルド熊さん(左)と石倉三郎さん(右)。
「コント・レオナルド」(ニ代目)が解散した理由とは?
そんな「コント・レオナルド」(ニ代目)は、その後も、様々なネタを披露すると、どれもお客さんに大ウケし、安定した人気を誇っていたのですが・・・
人気絶頂だった1985年10月に解散。
ちなみに、解散の理由は、レオナルド熊さんの度重なる裏切りに、石倉三郎さんの堪忍袋の緒が切れたことが原因だったとされています。
というのも、レオナルド熊さんにとって「コント・レオナルド」(ニ代目)は、石倉三郎さんとのコンビではなく、「自分の率いるグループ(自分が所有しているブランド)」という認識で、
自分が「コント・レオナルド」の知名度を上げたという強いプライドを持っていたことから、地方では、弟子や若手を引き連れ、石倉三郎さんに無断で、何度も堂々と「コント・レオナルド」として営業していたそうで、
石倉三郎さんは、
家にいたら、コントの大先輩、ラッキーセブンのポール牧さんから電話があった。『今、九州でお笑い大会に出てるんだけど、熊が女の弟子を相方にしてコントやってるぞ』と言う。金に汚い熊ならやりかねない。弟子で、たぶん愛人の女ならギャラをやらなくてすむからね。
この一件にはマネジャーが絡んでて、2人でギャラを分けてたんだ。許せんでしょ。熊を責めると、土下座して謝る。『サブちゃん、すまない。もう二度としない』と涙ながらに誓うんだけど、またやるんだ
と、語っているのですが、
そんな中、ついに、石倉三郎さんが、堪忍袋の緒が切れ、会って殴ってやろうと思っていると、
普段「サブ」と呼び捨てにしていたレオナルド熊さんが、土下座をして、
三郎さん、コンビを続けて下さい
と、頼み込んだそうで、
石倉三郎さんが、その姿に嫌気が差し、コンビ解消となったのだそうです。
「【画像】レオナルド熊の若い頃から死去までの出演ドラマ映画CMほか著書は?」に続く
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