1969年、ミス・ユニバース日本代表の人気モデルだった飯野矢住代さんと交際・同棲を始めると、飯野矢住代さんが生活費の全てを賄ってくれたうえ、バンドの活動資金も捻出してくれるなど、至れり尽くせりだったという、ジョニー吉長(じょにー よしなが)さんですが、交際から約1年後の1970年5月頃には破局したといいます。
今回は、ジョニー吉長さんと飯野矢住代さんが破局に至った経緯についてご紹介します。

「ジョニー吉長の元カノ・飯野矢住代との馴れ初めは?同棲生活はヒモ同然だった?」からの続き
ジョニー吉長は飯野矢住代が無収入となり生活の危機を迎えていた
まだ売れないバンドマンだったジョニー吉長さんは、ミス・ユニバース日本代表で、女優・モデル活動のほか、クラブ「姫」でホステスとしても勤務していた飯野矢住代さんの稼ぎで、同棲生活もバンド「カニバルス」の活動も成り立っていたそうですが、
飯野矢住代さんと同棲を開始してから約半年後、飯野矢住代さんが妊娠すると、飯野矢住代さんが所属していたジャニーズ事務所のメリー喜多川さんが激怒し、飯野矢住代さんは解雇されてしまったといいます。
(グアムでのグラビア写真では、すでに飯野矢住代さんのお腹は膨らんでいたそうです)
また、飯野矢住代さんは、妊娠8ヶ月となってお腹の大きさが顕著になると、クラブ「姫」でも、(お腹の大きいホステスを好む客はおらず)ホステスとして働けなくなったそうで、飯野矢住代さんは無収入となってしまったそうで、生活の危機を迎えたといいます。
ジョニー吉長は飯野矢住代との間に生まれてくる子供のために音楽活動を辞めサパークラブで働き始めていた
そんな中、焦った飯野矢住代さんに、
もう、バンドはやめて働いて
と、言われ、
ジョニー吉長さんは、
バンドはやめるよ
と、バンド「カニバルス」を脱退して、音楽活動を辞め、理容師の見習いとして働き始めたそうですが、
1969年11月初めには、(将来のレストラン経営も見据えて)赤坂にあるサパークラブで働き始めたそうです。
また、サパークラブの月給は約5万円(現在の貨幣価値で15万円ほど)だったそうで、この収入では足りなかったのか、飯野矢住代さんも、妊娠8ヶ月という身でありながら、(目立つことを避けるためか)銀座ではなく、高田馬場の場末のスナックで働き始めたそうです。
ちなみに、赤坂のサパークラブは、飯野矢住代さんがホステスとして勤めていたクラブ「姫」のマダム・山口洋子さんに紹介してもらったそうですが、
ジョニー吉長さんは、山口洋子さんに店に呼び出され、
生活力もないのに子供なんかつくって、どういうつもりなの。女は子供を産んだら働けないのよ
と、強くなじられたといいます。
ジョニー吉長は突然陣痛に襲われた飯野矢住代を連れて病院に駆け込んでいた
そんな中、予定日の2月26日よりも2ヶ月早い1969年12月22日、飯野矢住代さんが、突然、陣痛に襲われ、ジョニー吉長さんは、飯野矢住代さんを連れて広尾の日本赤十字社中央病院(現・日本赤十字社医療センター)に駆け込んだそうで、
その後、取材に訪れた「週刊平凡」の記者は、この時のジョニー吉長さんの様子を、
ときおりスチームが音をたてる、人けのない待合室に、ひとりジョニィがいた。長椅子にかけたままうずくまり、なにか祈っている。
と、報じています。
ジョニー吉長は飯野矢住代との間に男の子が誕生していた
そして、12月22日の午後7時15分、無事、男の子が誕生し、看護師が分娩室から赤ちゃんを抱いて出てくると、ジョニー吉長さんと(知らせを受けて病院に駆けつけた)飯野矢住代さんのお母さんは、2150グラムの小さな赤ちゃんを見て、抱き合うように喜んだそうで、
午後9時を回り、出産を終えて眠っていた飯野矢住代さんがようやく目を覚ますと、
ジョニー吉長さんと飯野矢住代さんは、分娩室で、
飯野矢住代さん:赤ちゃん、箱(保育器)に入るんだって。私の方が赤ちゃんより先に退院ね
ジョニー吉長さん:おサルさんみたいだった
飯野矢住代さん:でも、いい顔だったわよ
ジョニー吉長さん:鼻がペシャンコだった
飯野矢住代さん:生まれたばかりだからよ
ジョニー吉長さん:俺も3カ月早産の未熟児だったけど、こんなに大きく育ったから大丈夫さ
飯野矢住代さん:そこまで似なくてもいいのに
との会話を交わしたといいます。
ちなみに、その後、看護師から、家族は病室から出ていくように言われたそうですが、
飯野矢住代さんが、小声で、
ねえジョニー、ここから出ていかないで。出る真似をして窓から入っておいで。いなくなるのは嫌
と、言うと、
ジョニー吉長さんは、
わかった。安心して。じゃあ、ここに潜んでいるよ
と、分娩室にこっそり残ったそうで、
その後、ジョニー吉長さんが、飯野矢住代さんの手を握っていると、飯野矢住代さんは、再び、眠りに落ちたといいます。
ジョニー吉長と飯野矢住代の息子(赤ちゃん)は危篤状態に陥っていた
こうして、赤ちゃんも無事誕生し、幸せな日々が続くかと思われたのですが・・・
夜10時頃、看護師から、
飯野さんのご家族の方、すぐ看護室に来て下さい
と、インターホンから連絡が入ったそうで、
ジョニー吉長さんが、廊下を慌ただしく行き来する看護師をつかまえ、
すみません、一体どうしたんですか?
と、声をかけると、
ああ、飯野さん。お子さんが呼吸困難に陥っています、さっきチアノーゼを起こしたんです。最善の処置はしていますが、助かるかどうか、五分五分です
と、言われ、
しかも、容体は一刻の猶予もなく、小康を保っているものの、どうなるか分からないとも説明を受けたそうで、
(週刊誌の記者によると、この時からジョニー吉長さんは肩が小刻みに震え始めたといいます)
ジョニー吉長さんは、そのまま、院内で一夜を明かすと、翌日の12月23日も、待合室で、ジリジリしながら経過報告を待ったのだそうです。
ちなみに、その間、ジョニー吉長さんは、何度か飯野矢住代さんに面会するも、赤ちゃんのことは耳には入れなかったそうで、
何か変化を察したのか、いぶかしがる飯野矢住代さんに、
ううん、別に何もないよ。余計なことを考えないで今はゆっくり休んで
と、シラを切り通すと、
飯野矢住代さんは、うなずき、再び眠りに落ちたそうです。
ジョニー吉長と飯野矢住代の息子(赤ちゃん)は誕生して24時間もたずに死去していた
しかし、午後5時半、医師が重い足取りで待合室に来ると、
顔を上げたジョニー吉長さんに、
飯野さん、大変お気の毒です。5時19分でした
と、赤ちゃんが他界したことを告げたそうで、
この時の様子を、「週刊平凡」(1970年1月15日号)は、
だまってうつむいたまま聞いていたジョニィが、こぶしで顔をぬぐった。やがて看護婦が、きれいに洗った死体を抱いてきた。
〈24時間も生きられなかったんだなァ〉ジョニィは大きく肩をふるわせてこうつぶやく。矢住代に知らされたのは翌24日である。ベッドに寝たまま矢住代の右手が顔をおおった
と、報じています。
その後、ジョニー吉長さんと飯野矢住代さんは、亡くなった赤ちゃんに、ジョニー吉長さんの本名の「信喜」と飯野矢住代さんの本名「裕代」から1字ずつ取って、「信裕」と名付け、
ジョニー吉長さんには戸籍がなかったことから、飯野矢住代さんの戸籍に入れ、ジョニー吉長さんも父親として認知したのだそうです。
ジョニー吉長と飯野矢住代の破局理由は?
その後も、ジョニー吉長さんと飯野矢住代さんの同棲生活は続いたそうで、ジョニー吉長さんはサパークラブに勤務し、飯野矢住代さんは年が明けた1970年1月22日、銀座のクラブ「姫」に復帰。
そして、3月に入ったある日のこと、ジョニー吉長さんが、意を決して、
俺、もう一度、音楽をやりたいんだけど
と、懇願すると、
飯野矢住代さんは、
いいわよ。好きな仕事ですもの。もう一度、昔の2人に戻りましょう
と、言ったそうで、
ジョニー吉長さんは、バンド「カニバルス」に復帰したそうですが・・・
間もなく、ジョニー吉長さんと飯野矢住代さんは破局したのだそうです。
ちなみに、破局の理由は不明ですが、赤ちゃんを失った中、到底、昔の2人には戻れる訳もなく、しかも一緒にいることで余計に辛かったのかもしれません。
(その後、飯野矢住代さんは、ジョニー吉長さんと破局した翌年の1971年12月、21歳という若さで他界されています)
「ジョニー吉長の前妻・金子マリとの馴れ初めは?離婚理由は?子供は息子3人!」に続く
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