1968年、18歳の時、ミス・ユニバース日本代表に選ばれると、その後、ジャニーズ事務所の女性タレント第1号となるほか、銀座の高級クラブでホステスとして働いていたという、飯野矢住代(いいの やすよ)さん。
そんな飯野矢住代さんは、鉱山を経営するお父さんとその愛人だった芸者のお母さんのもとに誕生すると、幼い頃は、豪邸で何不自由なく育つも、10歳の時、お父さんの会社が倒産し、裸同然でお母さんと追い出されたそうで、
中学卒業後は、家計を支えるため、モデルの仕事や「ザ・ワイルド・ワンズ」のコスチュームデザイナーのアシスタント、初代「ジャニーズ」の付き人をするなど、複数の仕事を掛け持ちしていたといいます。
今回は、飯野矢住代さんの、驚くべき生い立ち(幼少期から16歳で芸能界の人脈を広げるまで)をご紹介します。

飯野矢住代のプロフィール
飯野矢住代さんは、1950年3月9日、
東京都文京区駒込神明町(現・本駒込)生まれ、
東京都田無市(現・西東京市)育ち、
身長169センチ、
体重51キロ、
学歴は、
渋谷区立松濤中学校卒業、
スリーサイズは、84-60-90、
本名は「飯野裕代」(読み方同じ)で、「オリベゆり」名義で作詞家として活動していたこともあったそうです。
飯野矢住代は非嫡出子として生まれるも幼い頃は裕福な家庭で何不自由なく育っていた
飯野矢住代さんは、茨城県北茨城市磯原に鉱山を持っていたお父さん・鈴木清さんと、芸者のお母さん・飯野辰子さんの間に、非嫡出子(婚外子)として誕生したそうで、
幼い頃は、100坪の土地に建てられた77坪の豪邸(天井にはシャンデリアがあり、お手伝いさんが何人もいたそうです)で何不自由なく育ったそうです。
(お母さんは、渋谷区円山町で「一二三(ひふみ)」という源氏名で芸者をしていたそうですが、1946年に、お父さんに身請けされたそうで、以降、1961年まで15年間に渡って愛人(囲われている者)だったそうです)
飯野矢住代は2歳の時に胸膜炎を患い母親に大切に育てられていた
そんな飯野矢住代さんは、2歳の時、胸膜炎を患い、医師には、「3日ともたない」と言われるも、奇跡的に一命を取り留め、「今後病気をさせたら命の保証はしない」と言われたそうで、
朝は10時まで寝させられ、専任の看護師を付けられるなど、お母さんにとても大切に育てられたそうです。
飯野矢住代は10歳の時に父親の会社が倒産して母親と共に放り出され貧乏生活を強いられていた
しかし、飯野矢住代さんが10歳の時には、石炭産業の斜陽化により、お父さんの会社が倒産。
お父さんは豪邸を売却しなけらばならなくなり、飯野矢住代さんとお母さんは、裸同然で放り出されたそうで、お母さんも再び芸者に戻ったのだそうです。
(そんな中、飯野矢住代さんは、家にお母さんがいない寂しさとお父さんがいないコンプレックスから、反抗的な少女になったそうです)
そして、その後、飯野矢住代さんとお母さんは、住まいを転々とすると、最終的には、お母さんが芸者をしていた渋谷区円山町に移り住んだそうですが、小さな二間しかない風呂なしの古びたアパートで、苦しい生活を強いられたのだそうです。
(お母さんは、その自宅で、芸者置屋「光清(みつきよ)」(芸者は自身1人)を営むようになったそうです)
飯野矢住代は中学3年生の時に同い年の子役・池田秀一の追っかけをしていた
そんな中、飯野矢住代さんは、1964年、中学3年生の時には、当時、テレビドラマ「次郎物語」の主演を務めていた、飯野矢住代さんと同い年(中学3年生)の子役・池田秀一さんのファンとなり、追っかけをするようになっていたそうで、
飯野矢住代さんは、池田秀一さんに会うために「次郎物語」を撮影していたNHKの日比谷会館に通い詰めていたといいます。
(池田秀一さんは、後に、声優としても活動しており、「機動戦士ガンダム」のシャア・アズナブル役で有名です)
飯野矢住代は中学卒業後は初代「ジャニーズ」の付き人やモデルほか複数の仕事を掛け持ちしていた
また、飯野矢住代さんは、1965年3月、中学卒業後は、苦しい家計を助けるため、高校には進学せず、モデルの仕事を始めると、
それ以外にも、グループ・サウンズの人気バンド「ザ・ワイルド・ワンズ」のコスチュームデザイナーのアシスタントをするほか、内田裕也さんの紹介で、初代「ジャニーズ」(真家ひろみさん、飯野おさみさん、中谷良さん、あおい輝彦さん)の付き人をするなど、複数の仕事を掛け持ちしたそうです。
(内田裕也さんとどのように知り合ったかは不明です)
飯野矢住代が16~18歳頃は「ジャニーズ」のバックバンドの嶺のぼると親しくしていた
そんな中、飯野矢住代さんは、「ジャニーズ」のバックバンドのメンバーだった嶺のぼるさんととても親しくなったそうで、
やがて、お父さんがいない飯野矢住代さんは、嶺のぼるさんが家族と住む三鷹市井の頭のアパート「さかえ荘」に、夕食を食べに頻繁に通い詰めるようになったそうです。
(恋愛関係ではなかったそうです)
ちなみに、「さかえ荘」から帰る時は、いつも、嶺のぼるさんが付き合ってくれ、一緒に井の頭線の三鷹台駅から上りの電車に乗ったそうですが、
飯野矢住代さんは、降りるべき神泉駅に着いても車両から降りず、そのまま、終点の渋谷駅まで行き、その後、その車両が下りの最終電車として折り返し運転を始め、再び神泉駅に着いたところで、ようやく降りていたそうで、その後、嶺のぼるさんは三鷹台駅まで帰っていたそうです。
(そんな嶺のぼるさんとの交友は2年ほど続いたそうです)
飯野矢住代は16歳の時に「ザ・スパイダース」の6枚目のシングルのB面「なればいい」に歌詞を提供していた
また、飯野矢住代さんは、この頃、夜の赤坂や六本木で遊び回るようになったそうですが、そんな生活の中、業界人との人脈も広がったそうで、
再び、内田裕也さんを通して、イタリアンレストラン「キャンティ」で、「ザ・スパイダース」のメンバーとも知り合うと、
「ザ・スパイダース」のメンバーのかまやつひろしさんは、飯野矢住代さんが中学時代に書いた一編の詩に曲をつけ、1966年7月1日には、「ザ・スパイダース」の6枚目のシングル「サマー・ガール」のカップリング曲として、「なればいい」(「オリベゆり」名義)をリリースしたそうです。
(飯野矢住代さんは、中学3年生の終わり頃から詩作を始め、詩を書き溜めた大学ノートは、この時、すでに10冊を超えていたといいます)
「【画像】飯野矢住代の若い頃は?ミス・ユニバース日本に銀座のホステスも!」に続く
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鉱山を経営するお父さんとその愛人だった芸者のお母さんのもとに誕生し、幼い頃は豪邸で何不自由なく育つも、10歳の時には、お父さんの会社が倒産して、お母さんと共に追い出され、 家計を支えるため、中卒でモデルの仕事を始め、初代 …







