1969年、21歳の時、ドラマーのジョニー吉長さんと交際・同棲を開始すると、”素敵な男性とお花に囲まれたお城で暮らす”という夢を見事に叶え、幸せな日々を過ごしていたという、飯野矢住代(いいの やすよ)さん。
しかし、そんな日も長くは続かなかったそうで、やがて、男の子を出産するも1日持たず亡くなると、間もなく、ジョニー吉長さんとも破局したといいます。
今回は、飯野矢住代さんとジョニー吉長さんの、馴れ初め、誕生した子供の他界、破局に至った経緯などについてご紹介します。

「【画像】飯野矢住代の若い頃は?ミス・ユニバース日本に銀座のホステスも!」からの続き
飯野矢住代とジョニー吉長の馴れ初めは?
1969年1月末、飯野矢住代さんが、数人のバンドマンと一緒に六本木に繰り出した際、
誰か私と焼き肉を食べに行かない?
と、呼びかると、
俺、行きたいな
と、真っ先に応じたのが、後に伝説的なドラマーとなるジョニー吉長さんで、飯野矢住代さんとジョニー吉長さんは、二人で焼き肉を食べに行ったそうですが、
お互いに身の上話をするうち、幼い頃の境遇が驚くほど似ていて、飯野矢住代さんはびっくりし、また、2人の心は急速に通い合うようになったそうです。
ちなみに、この時、飯野矢住代さんは、将来を嘱望された裕福な大学生と交際していたそうですが、
その大学生には、面と向かって、
私にはジョニーが必要なの。ジョニーにも私が必要だと思うの
と宣言し、別れたといいます。
飯野矢住代はジョニー吉長との交際をマスコミからバッシングされていた
こうして、飯野矢住代さんは、ジョニー吉長さんと交際を開始すると、すぐに原宿のマンションで一緒に暮らすようになったそうですが、
マスコミには、
なぜ裕福な大学生と別れて、貧しいバンドマンと付き合うようになったのか
玉の輿を捨てるなんて、どうかしているんじゃないか
と、書きたてられ、無遠慮な質問を幾度となく浴びせられたといいます。
しかし、飯野矢住代さんは、一切ひるむことなく、むしろ、聞かれた質問には何でも答えたそうで、
1969年、雑誌「平凡パンチ」では、
そりゃ、ミス・ユニバース日本代表という肩書きにつられて寄って来る男もいるわよ。そういう人は“オレはユニバースとやったぞ”と言いたくて迫ってくるんだけど、わたしはご覧の通り普通の女よ。
そんな人の前では、わざと男っぽいシグサでガチャガチャ騒ぐと、大抵は拍子抜けしてまた離れていってしまうわ。(中略)だから、わたしに今までつきあってくれた人は、そんなガサツなわたしをちゃんとわかった上でつきあってくれたわけだから、いい人ばかりよ
と、答えています。
飯野矢住代はジョニー吉長のバンド活動資金を工面するも幸せを感じていた
とはいえ、ジョニー吉長さんは、当時、売れないバンドマンで収入はほぼ無かったことから、飯野矢住代さんは、自らのモデルやホステスとしての収入で生活を支えるだけでなく、ジョニー吉長さんのバンド「カニバルス」の活動資金(スタジオ代、楽器代、チケットノルマ代ほか)まで工面していたそうで、
(それでも足らず、飯野矢住代さんは、クラブ「姫」のマダム・山口洋子さんからお給料を前借りしていたそうです)
世間から見ると、ジョニー吉長さんはヒモのような状態だったといいます。
それでも、飯野矢住代さんは、部屋には、毎日、マーガレットやピンクのバラを絶やさず、バスルームには、ジョニー吉長さんのために拡大鏡を設置するなど、
素敵な男性とお花に囲まれたお城で暮らす
という、幼い頃からの夢をジョニー吉長さんとの生活の中で叶え、ジョニー吉長さんとの暮らしに幸せを感じていたそうで、
飯野矢住代さんは、
彼がそばにいるだけでいい
と、思っていたといいます。
飯野矢住代はジョニー吉長との2ショットグラビアを雑誌に掲載されていた
また、飯野矢住代さんは、ジョニー吉長さんと原宿のマンションで同棲を始めてから半年後の1969年11月には、雑誌「プレイボーイCUSTOM」(1969年11月15日号)に、「GUAMのPRE-HONEYMOON 68ミス・ユニバース飯野矢住代+吉長信喜」とのタイトルで、
グアムの美しい海を背景に、裸で抱き合い波と戯れる刺激的な2ショットグラビアが何枚も掲載されているのですが、それは、愛に満ち溢れたものだったといいます。
(飯野矢住代さんは、妊娠4ヶ月の時にも、週刊誌「女性セブン」(1969年11月19日号)でジョニー吉長さんと共にヌードを披露しています)
飯野矢住代はジョニー吉長との子供を妊娠するとジャニーズ事務所(メリー喜多川)に解雇されていた
そんな中、飯野矢住代さんは、ジョニー吉長さんの子供を妊娠しているのですが、
(実は、「プレイボーイCUSTOM」でのグラビアでも、お腹がやや膨らんでいたといいます)
これに、ジャニーズ事務所の副社長・メリー喜多川さんが激怒し、ジャニーズ事務所を解雇されると、
やがて、ホステスの方も、大きなお腹で働く訳にいかず、1969年9月半ばから、クラブ「姫」での勤務も産休に入ったそうで、完全に無収入となったうえ、当然、クラブ「姫」のマダム・山口洋子さんから、これ以上、前借り(バンス)を続けることが出来ず、
ジョニー吉長さんに、
もうバンドはやめて働いて
と、言ったそうで、
ジョニー吉長さんもこれに同意し、生まれてくる子供ために、バンドを辞め、理容師になるための見習いとして働き始めたのだそうです。
(後に、ジョニー吉長さんは、レストランの経営を新たな目標とし、山口洋子さんの紹介で、同年(1969年)11月初旬から、赤坂のサパークラブのボーイとして、月給5万円(現在の貨幣価値で約15万円)で働くようになったそうです)
飯野矢住代がジョニー吉長のことを夫と宣言するも入籍しなかった理由とは?
ちなみに、この頃、飯野矢住代さんは周囲に、
ジョニーは私の夫です
と伝えるも、ジョニー吉長さんとは入籍していなかったそうですが、
それは、ジョニー吉長さんは非嫡出子(婚外子)だったうえ無戸籍で、正式に結婚(入籍)することができなかったそうで、仕方なく、事実婚状態だったといいます。
飯野矢住代は妊娠8ヶ月の時に高田馬場の場末のスナックで働き始めていた
また、飯野矢住代さんは、(銀座では目立つと思ったのか)妊娠8ヶ月の時、高田馬場の場末のスナックで働き始めたそうで、
住まいも、ジョニー吉長さんを連れて、お母さんが住む円山町のアパートに戻り、3人で同居するようになったそうですが、
(お母さんは、当初、ジョニー吉長さんとの交際を反対していたそうですが、3人で住むようになると、ジョニー吉長さんを気に入り、ジョニー吉長さんの服を洗濯するなど面倒を見てくれるようになったそうです)
飯野矢住代さんは、週刊誌の取材に対し、
出産前は体を動かしたほうがいいって言うでしょ。健康のためにお手伝いしているの。ここは母の友だちのそのまたお友だちがやっているお店なんです
と、答えています。
飯野矢住代とジョニー吉長の息子は生まれて間もなく他界していた
そんな中、飯野矢住代さんは、出産予定日が1970年2月26日だったことから、2月までは働くつもりでいたそうですが、出産予定日より2ヶ月も早い1969年12月22日の夕方、スナックに出勤しようとしたところ、突然、産気づいたそうで、
ジョニー吉長さんに連れられ、渋谷区広尾の日本赤十字社中央病院(現在の日本赤十字社医療センター)に駆け込むと、19時15分、2,150グラムの男の子を出産したそうですが・・・
喜んだのもつかの間、赤ちゃんは、早産で未熟児だったことから保育器に入れられたそうですが、やがて、呼吸困難に陥って重篤な状態となると、最終的には、チアノーゼを起こし、翌日の12月23日17時19分に他界されたのだそうです。
(飯野矢住代さんは、この時、まだ入院中で、赤ちゃんの死を知らなかったそうですが、翌24日に知らされると、ベッドに横たわったまま、右手で顔を覆ったそうです)
ちなみに、飯野矢住代さんとジョニー吉長さんは、その後、赤ちゃんに、それぞれの本名(裕代と信喜)から1字ずつ取って「信裕」と名付け、ジョニー吉長さんは、父親として認知したそうですが、戸籍がなかったことから、赤ちゃんは飯野矢住代さんの籍に入れたといいます。
飯野矢住代とジョニー吉長の破局理由は?
その後、飯野矢住代さんは、年が明けた1970年1月22日、銀座のクラブ「姫」に復帰したそうですが、
同年5月頃には、ジョニー吉長さんと同棲を解消し、破局しています。
実は、3月に入ったある日のこと、飯野矢住代さんは、ジョニー吉長さんから、もう一度音楽をやりたいと切り出され、
いいわよ。好きな仕事ですもの。もう一度、昔の2人に戻りましょう
と、これを了承したそうですが、
赤ちゃんの死という衝撃的な現実を前に、昔の2人には戻れないと、すぐに悟ったのかもしれません。
「飯野矢住代の恋愛遍歴は?元カレはジョニー吉長、池田秀一、西郷輝彦ほか多数!」に続く
![]()
ミス・ユニバース日本代表に選ばれると、世界大会では入選できなかったものの、その後、銀座の高級クラブ「姫」でホステス、「ジャニーズ事務所」に所属してタレントと、ホステス業と芸能活動の2足のわらじで活躍した、飯野矢住代(いい …







