鉱山を経営するお父さんとその愛人だった芸者のお母さんのもとに誕生し、幼い頃は豪邸で何不自由なく育つも、10歳の時には、お父さんの会社が倒産して、お母さんと共に追い出され、

家計を支えるため、中卒でモデルの仕事を始め、初代「ジャニーズ」の付き人ほか様々な仕事を掛け持ちして、業界で人脈を広げたという、飯野矢住代(いいの やすよ)さんは、

その後、ミス・ユニバース日本代表に選ばれると、銀座の高級クラブ「姫」でホステス、「ジャニーズ事務所」に所属して芸能活動、と2足のわらじで活躍するのですが、21歳という若さで亡くなっています。

今回は、21年間という短い期間ながら、一般の人の何倍も濃い人生を歩んだ飯野矢住代さんの、若い頃(ミス・ユニバース日本代表以降)から他界されるまでの経歴を時系列でご紹介します。

飯野矢住代

「飯野矢住代の生い立ちは?中卒後ジャニーズの付き人等で人脈を広げていた!」からの続き

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飯野矢住代は18歳の時にミス・ユニバースの日本代表に選ばれていた

苦しい家計を助けるため、中学卒業後は高校には進学せず、モデルの仕事を始めると、その後、初代「ジャニーズ」の付き人をするほか、様々な仕事を掛け持ちして、業界で人脈を広げていたという飯野矢住代さんですが、

そんなある日のこと、友人から「いい話がある」と言われ、話を聞いてみると、

水着を着てステージの隅に立っているだけでいい

と、言われたといいます。

実は、これはミス・ユニバースのコンテスト(ミス・ユニバースジャパン東京予選)だったそうで、

まあ、箔(はく)が付けばいいか

と、軽い気持ちでエントリーすると・・・

あっさりと東京予選を通過。

さらに、大阪で行われた全国大会では、応募総数2,836人の中から選ばれて、見事、優勝し、ミス・ユニバース(日本代表)に輝いたのでした。

飯野矢住代
ミス・ユニバース日本代表に輝く飯野矢住代さん。

飯野矢住代は出自を理由にミス・ユニバース世界大会出場の辞退を求められていた

ただ、飯野矢住代さんが、表彰式直後に行われた記者会見で、

家業は?

と、尋ねられ、

母は芸者の置屋をしています。私は二号(愛人)の娘です

と、発言すると、

マスコミがこのネタに飛びつき、翌日のスポーツ紙には、競うように、「二号の娘」「芸者の娘」と書き立てられたそうで、

飯野矢住代さんは、日本代表選考会の主催者「国際親善友好協会」に、世界大会への出場を辞退するように求められたのだそうです。

(「国際親善友好協会」は、飯野矢住代さんの最終学歴が中卒ということにも難色を示したそうです)

また、飯野矢住代さんは、自宅に、「二号」「妾(めかけ)の子」などと言われるイタズラ電話が相次いだほか、右翼を名乗る男から、「貴様は日本の恥だ。世界大会を辞退しないと、家がどうなっても知らんぞ」と脅されたり、日本刀を持った男がアパートに怒鳴り込んできたこともあったといいます。

飯野矢住代はミス・ユニバース世界大会への出場を決意するも渡航費が捻出できなかった

それでも、飯野矢住代さんは、アメリカ・マイアミで開催される世界大会への出場を決めたそうで、マナーや英会話の特訓を受けたり、関係者各方面への挨拶まわりに追われる日々を送ったそうです。

ただ、アメリカへの渡航費が、通常なら、「国際親善友好協会」が負担していたところ、一切、出してもらえなかったそうで、

芸能人のたまり場であるイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた飯野矢住代さんは、友人や知人など、業界関係者を駆け回ったそうですが・・・

資金は思うように集まらなかったといいます。

というのも、飯野矢住代さんは、当時、人気絶頂だった「ザ・タイガース」のメンバー・加橋かつみさんと交際していたそうですが、

その影響で、加橋かつみさんは、合宿の門限(午後10時)を破るなど、共同生活の調和を乱すようになっていたそうで、この交際は、「ザ・タイガース」のメンバーには歓迎されず、このあたりの事情が関係していたといいます。

飯野矢住代は銀座のクラブ「姫」のオーナー・山口洋子を紹介されていた

そんな中、飯野矢住代さんは、(渡航費用が集まらないことを見かねた)ある関係者に、

そういうことならいい人がいるよ。紹介しようか

と、言われたそうで、

銀座のクラブ「姫」のオーナー・山口洋子さんを紹介されたといいます。

飯野矢住代
飯野矢住代さん

飯野矢住代は18歳にして山口洋子と駆け引きをしていた

実は、山口洋子さんは、飯野矢住代さんが、ミス・ユニバースに選ばれるという栄光を手にしながら、その維持費や衣装代に窮しているという情報を得て、

「ミス・ユニバースが働く店なんてどこにもない」と確信し、飯野矢住代さんを、自身の店「姫」のホステスとしてスカウトすることを決めていたそうで、

山口洋子さんは、自著「ザ・ラスト・ワルツ『姫』という酒場」で、飯野矢住代さんを紹介された時のことを、

ときおり洋服を作ってくれていたデザイナーから、情報を仕入れた。

『ミスユニバースの飯野矢住代が銀座で働いてもいいとか言ってましたよ。(中略)何でも渋谷の円山に芸者で出ているおっ母さんと母娘二人暮らしで、たいして楽でもない。

そこへ持ってきてミスに当選しちゃったもので、やれドレスだ靴だとやたらに金がかかる。こんなことならいっそ出ない方がましだったみたいな結末らしくて。』
(『』内は紹介者の言葉)

と、綴っているのですが、

山口洋子さんが、真夏の蒸し暑い日、住所を頼りに渋谷・道玄坂の細い路地裏へ向かうと、たどり着いたのは、到底、ミス・ユニバース日本代表の自宅とは思えない、質素な二間きりの古いアパートだったといいます。

そして、山口洋子さんは、そこで待ち構えていた飯野矢住代さんのお母さんに、単刀直入に、

実はおたくのお嬢さんのことなんですけど、ぜひうちの店で働いていただきたくて、お願いにあがりました、むろん条件は最高にさせていただきます。とりあえず百万円の契約金で。

と、(素人から働くにしては目一杯弾んだつもりの給料の額)を伝えたそうですが・・・

お母さんはというと、

そりゃあママさん、何といっても本人の意志が先ですよもう大人ですから、いったい矢住代がどういいますかね・・・

と、言ったそうで、

山口洋子さんは、この言葉を聞きながら、神妙に頷いたものの、

(飯野矢住代さんのお母さんのことを)食えない相手だ

と、思ったといいます。

すると、お母さんは、さらに、他の店からの誘いを引き合いに出し、契約金の増額を要求してきたそうですが、

山口洋子さんは、その「食えない」母親の提示に応じ、契約金を(世界大会への渡航費なども含めた破格の条件で)倍の200万円に引き上げることで合意したのだそうです。

そして、山口洋子さんによると、

当人である飯野矢住代さんはというと、そんな交渉がまとまる頃を見計らって姿を見せ、

難しそうな話をしていたから・・・

と、遠慮がちに話したそうですが、

山口洋子さんが帰る際には、見送るふりをして後を追ってくると、

ねぇママ、母さんが何と言おうとわたしママのお店にきめたわ。いいのよ明日から働いても、だからちょっと・・・。つまり、母さんの方に内緒のお小遣いをちょっぴり、実はどうしても買いたいものがあるの、男ものだけど・・・

と言って、首をすくめ、チロっと舌を出したそうで、

山口洋子さんは、自著「ザ・ラスト・ワルツ『姫』という酒場」で、

「わっ嬉しい」19歳の日本代表のミスの仕種は、もはやこなれた水商売の女のそれだった

と、綴っています。

飯野矢住代は18歳の時にミス・ユニバース世界大会に出場するも入選には至らなかった

さておき、こうして、飯野矢住代さんは、山口洋子さんに渡航費を出してもらい、フロリダ州マイアミビーチで開催されたミス・ユニバース世界大会に晴れて出場することができたそうで、

1968年6月下旬、お母さんと2人だけで渡米し、7月13日、ミス・ユニバース世界大会に出場したそうですが・・・

入選には、至らなかったそうです。

ただ、ミス・ユニバース世界大会の審査員の一人だった田英夫(でん ひでお)さんは、飯野矢住代さんについて、「週刊文春」(1968年12月23日号)で、

予選で落ちたのは身体の差で仕方のないことです。だが人間的には評判がよかった。アメリカの審査員のミセス・アブトンやイスラエルの審査員は盛んに褒めていました。ほかの人が代表になったとしても、飯野さんより良かったか、というと、それは疑問です

と、評価しています。

飯野矢住代は銀座のクラブで働くことを会見でマスコミに宣言していた

その後、飯野矢住代さんが帰国すると、羽田空港のロビーには50名ほどの記者が集まっており、そのまま会見が行われたそうですが、

飯野矢住代さんは、

私の今後についてですが、銀座のクラブでホステスとして働きます

(お店は)決まっています。山口洋子さんの『姫』にお世話になります

と、宣言し、

条件や契約金を問われると、

ご想像にお任せします

と、白い歯を見せて笑顔でかわしたそうで、

ミス・ユニバース日本代表が銀座のクラブホステスになる

という、前代未聞のネタに、記者たちはさっそく飛びついたのだそうです。

(話題になれば客の関心を引くことができるという、山口洋子さんの狙いだったそうです)

飯野矢住代は18歳の時に銀座の高級クラブ「姫」で人気ナンバーワンホステスになっていた

こうして、飯野矢住代さんが、山口洋子さんが経営する銀座の高級クラブ「姫」でホステスとして勤務するようになると、店は、(もともと盛況だったのですが)ミス・ユニバース見たさの客で、連日、ごった返し、

飯野矢住代さんは、1日で1万5,000円(現在の貨幣価値で6万円)稼ぎ出すなど、「姫」の人気ナンバーワンホステスとなったのだそうです。

飯野矢住代は18歳の時に「ジャニーズ事務所」に所属していた

また、飯野矢住代さんは、かつて、「初代ジャニーズ」の付き人をしていたことから、その縁で、「ジャニーズ事務所」にも所属したそうで、

モデル業やクラブ「姫」でのホステスと並行して、タレント活動も開始すると、「ミス・ユニバース」の肩書は大きく、映画やテレビドラマなど女優の仕事も入るようになったのだそうです。

(飯野矢住代さんは、「ジャニーズ事務所」の女性タレント第1号だったそうです)

飯野矢住代
飯野矢住代さん

飯野矢住代が20歳の頃は自堕落で不安定な生活を送っていた

そんな飯野矢住代さんは、プライベートも華やかで、加橋かつみさんのほか、ジョニー吉長さん、西郷輝彦さん、藤竜也さんほか、数多くの男性と交際したそうですが、

新しい交際相手ができる度に、その男性の部屋へ転がり込んで、持っているお金をすべて貢ぎ、お金が尽きて別れると、渋谷・円山町のお母さんが住むアパートへ戻るという、繰り返しだったそうで、

やがては、ホステス業が嫌になり、クラブ「姫」も休みがちとなると、「姫」を辞め、銀座のクラブを転々としたそうですが、借金(前借り)を作っては、借金を抱えながら店を替えるという、自堕落で不安定な日々を過ごすようになったそうです。

飯野矢住代は21歳の若さで死去していた

そんな中、1971年7月、飯野矢住代さんは、かつて、中学3年生の時に追っかけをしていた同い年の俳優・池田秀一さんと、約7年ぶりに再会すると、すぐに交際を開始したそうで、

飯野矢住代さんは、週に2回ほど、池田秀一さんのマンションの部屋に通うようになったそうですが・・・

1971年12月28日、飯野矢住代さんが、朝9時に池田秀一さんの部屋を訪れると、9時半、仕事に行く池田秀一さんを送り出したその後、

(本人が他界しているためここからは推測ですが)お風呂に入りたくなったのか、浴槽に水を入れてガスを点火するも、排水栓がわずかにズレていたことが原因で水が漏れて、お風呂が空焚きの状態になってしまい、

しかも、その間、飯野矢住代さんは寝込んでしまって、空焚きの状態になっていることに気がつかず、やがては、塩素ガスが充満し、ガスに巻かれるも、気がつくことなくそのまま意識不明となり、21歳の若さで他界されたのでした。

飯野矢住代の出演作品(テレビドラマ)

それでは、最後に、飯野矢住代さんの出演作品(テレビドラマ)をご紹介しましょう。

テレビドラマでは、

  • 1969年「プレイガール」第18話
    飯野矢住代
    「プレイガール」より。
  • 1969年「セブンティーン 17才」

飯野矢住代の出演作品(映画)

映画では、

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飯野矢住代の提供作品(作詞)

また、飯野矢住代さんは、

  • 1966年「なればいい」(ザ・スパイダース)
  • 1968年「ごめんなさいね」(ザ・バーズ)

など、作詞もしていました。

「飯野矢住代とジョニー吉長の馴れ初めは?破局理由は?子供が生後1日で死去!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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