1967年2月5日、20歳の時、「ザ・タイガース」として1stシングル「僕のマリー」でデビューすると、その後、1967年5月5日にリリースした2ndシングル「シーサイド・バウンド」が40万枚を超える大ヒットとなった、森本太郎(もりもと たろう)さん。

今回は、森本太郎さんの、若い頃(「ザ・タイガース」時代)の経歴をヒット曲(シングル)などを交えて時系列でご紹介します。

森本太郎

「【画像】森本太郎の若い頃(ファニーズ時代)は?沢田研二らと合宿生活も!」からの続き

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森本太郎は19歳の時にバンド名を「ファニーズ」から「ザ・タイガース」に改名させられていた

「渡辺プロダクション」との契約が決まり、上京することとなった森本太郎さんたち「ファニーズ」は、1966年10月29日には、「ナンバ一番」で「ファニーズさよなら公演」を開いてもらうと、

同年11月3日には、京都の植物園でファンとのお別れパーティーを行い、同月9日には、13時18分京都発の新幹線こだまで、東京に向かったそうで、

同月12日、「日本グラモフォン」(後に「ポリドール・レコード」⇒「ユニバーサルミュージック」に併合)のオーディションを受けると、合格し、

同月15日には、「ザ・ヒットパレード」でテレビ初出演を果たしたそうですが、

収録当日、作曲家のすぎやまこういち氏(当時、「ザ・ヒットパレード」のプロデューサー)により、バンド名を「ファニーズ」から「ザ・タイガース」へと改名させられたのだそうです。

(メンバーが関西出身だったため、プロ野球の「阪神タイガース」から名付けたという説と、当時、絶大な人気を博していた「モンキーズ」の存在を意識し、動物名となったという説があります)

森本太郎と岸部一徳
1966年、上京直後の森本太郎さん(左)と岸部一徳さん(右)。

森本太郎は19歳の時に「ザ・タイガース」として「日劇ウエスタンカーニバル」で人気を博していた

その後、森本太郎さんたち「ザ・タイガース」は、午前中はレッスン、午後からは芸能誌取材や表紙のグラビア撮影、夜はジャズ喫茶で演奏という毎日を送るようになったそうですが、

そんな中、内田裕也さんに誘われ、「ザ・スパイダース」や「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」などグループサウンズのバンドが競演していた憧れのステージ「日劇ウエスタンカーニバル」に出演すると、

「入り待ち」や「出待ち」がいたほか、「ザ・タイガース」の出番ではファンの歓声がひときわ大きくなったそうで、人気が出たことが実感できたといいます。

(「日劇ウエスタンカーニバル」はファンの取り合いの場でもあったそうです)

森本太郎は20歳の時に「ザ・タイガース」として2ndシングル「シーサイド・バウンド」が売上40万枚超の大ヒット

こうして、「ザ・タイガース」は、1967年2月5日には、「僕のマリー」でスピードデビューを果たすのですが・・・

売上はパッとしなかったといいます。

「僕のマリー」
「僕のマリー」

(森本太郎さんたちは、もともと洋楽のコピーを中心に演奏していたため、日本語を歌うのは少し抵抗を感じていたといいます)

ただ、1967年5月5日(森本太郎さん20歳の時)にリリースした2枚目のシングル「シーサイド・バウンド」は40万枚を超える大ヒットとなり、一躍、「ザ・タイガース」は脚光を浴びたのでした。

「シーサイド・バウンド」
「シーサイド・バウンド」

森本太郎は20歳~22歳の時に「ザ・タイガース」として「モナリザの微笑」「君だけに愛を」「銀河のロマンス/花の首飾り」「シー・シー・シー」「廃虚の鳩」「青い鳥」が大ヒット

そして、その後も「ザ・タイガース」は、

  • 1967年8月15日には、3枚目のシングル「モナリザの微笑」
    「モナリザの微笑」
    「モナリザの微笑」
  • 1968年1月5日には、4枚目のシングル「君だけに愛を」
    「君だけに愛を」
    「君だけに愛を」
  • 1968年3月25日には、5枚目のシングル「銀河のロマンス/花の首飾り」
    「銀河のロマンス/花の首飾り」
    「銀河のロマンス/花の首飾り」
  • 1968年7月15日には、6枚目のシングル「シー・シー・シー」
    「シー・シー・シー」
    「シー・シー・シー」
  • 1968年10月1日には、7枚目のシングル「廃虚の鳩」
    「廃虚の鳩」
    「廃虚の鳩」
  • 1968年12月1日には、8枚目のシングル「青い鳥」
    「青い鳥」
    「青い鳥」

と、シングルをリリースすると、大ヒットを連発し、瞬く間にスターダムにのし上がったのでした。

「タイガ-スがあなたの街へ」の 森本太郎
1968年、人気絶頂の頃、雑誌の企画「タイガ-スがあなたの街へ」で大勢のファンに取り囲まれる森本太郎さん。

森本太郎は22歳の時に「ザ・タイガース」の8枚目のシングル「青い鳥」を作詞作曲していた

ちなみに、8枚目のシングル「青い鳥」は、森本太郎さんの作詞作曲なのですが、

森本太郎さんは、

『青い鳥』の場合はアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』を作る時にマネージャーから初めて「曲を作ったらどうだ?」って言われたんですよ。初めは「出来ません」って断ったんだけど「やるだけやってみたら?できなかったらそれでいいから」って言われてチャレンジしたんです。

不思議なことなんだけど、実はすでにファニーズ時代にファンの人に『青い鳥』っていうタイトルで色紙に詩を書いて送っていたらしいんだよ。「僕はこれから作詞もやろうと思っている」って言って渡したんだって。

(森本太郎さん自身はその話を覚えておらず)後になって聞いたんです。内容も歌詞のものとは少し違う内容だったけど、そう言えば「青い鳥~♪」っていうフレーズだけは以前からよく口ずさんでいた気もしますしね。曲先でも一部だけは歌詞と一緒にでき上がってることってあるじゃないですか。

と、語っています。

(この曲は、オリコン4位、売上33.6万枚を記録したのですが、森本太郎さんは、嬉しかったものの、この時は、あまりにも忙しすぎて、この先もソングライティングをやっていく展望など考えている余裕はなかったそうです)

森本太郎が22歳の時には「ザ・タイガース」ではメンバー同士が言い争うようになっていった

さておき、こうして、「日本一のバンドになる」という夢を叶えた森本太郎さんたち「ザ・タイガース」でしたが、

スターダムを駆け上がった森本太郎さんたちを待っていたのは、スケジュールに追われる過酷な日々だったそうで、

森本太郎さんは、その時の状況について、

とにかく忙しすぎた。テレビはもちろん、ラジオのゲスト出演も各局いっぱい。それに芸能誌の取材や表紙、グラビア撮影……。

中でもTBSの「ヤング720」は朝の7時20分から生番組で1曲ライブ演奏するんです。朝が終わったと思ったら、テレビ番組の収録が始まる。だから、カメリハ終わったら楽屋に帰って寝て、ランスルーをやったらまた寝て、本番直前に起きてメイクして。

テレビが終わったら、夜10時くらいから映画の撮影が始まる。『世界はボクらを待っている』の撮影があったときはキツかった。

と、語っているのですが、

ほとんど寝る時間が取れない中、楽屋で泥のように寝るなど、寸暇を惜しんで休んでいるうち、

まだ若いのに自由がない

という思いが募ってきたほか、

もともとは、純粋な遊び仲間でチーム一丸となっていたメンバー間でも、目指している方向が少しずつズレ、利害関係も出てきて、四六時中、一緒にいることに疲れ、仕事をしていても楽しくなくなってきたそうで、

合宿所では、メンバー同士がイライラをぶつけ合い、言い争うことが増えていったのだそうです。

さらに、合宿所の周りには、四六時中、熱狂的なファンが群がるようになっていたことから、ほっとできる場所がなかったそうで、1967年7月23日には、逃げるように、新宿区左門町へ引っ越ししたのだそうです。

森本太郎が21歳の時には「ザ・タイガース」では加橋かつみと沢田研二の仲が険悪になっていた

そんな中、特に、強く自由を求めていた加橋かつみさんと、事務所の意向に忠実でプロとしてストイックに仕事をこなしていた沢田研二さんは、激しい衝突を繰り返すようなっていったそうで、

ついに、1968年1月27日には、渋谷公会堂の楽屋で激しい殴り合いのケンカに発展したのだそうです。

そして、このステージではプロとして振る舞ったものの、その夜、二人は、それぞれ別々の場所で号泣したと言われており、この事件以降、二人は口をきかなくなったのだそうです。

森本太郎が22歳の時には「ザ・タイガース」は加橋かつみが脱退し沢田研二のバックバンドと化していた

そして、同年(1968年)4月には、加橋かつみさんが脱退の意志を固めたそうですが・・・

沢田研二さんと人気を二分していた加橋かつみさんを離したくない「渡辺プロダクション」は、1968年12月5日、加橋かつみさんの芸術観を反映したアルバム「ヒューマン・ルネッサンス」を「ザ・タイガース」としてリリースして、加橋かつみさんの引き留めに成功。

ただ、1969年3月5日には、人気絶頂期に中心メンバー(加橋かつみさん)が脱退することによるイメージダウンを恐れた「渡辺プロダクション」が、レッスン中に、加橋かつみさんとその母親をホテルに拘束して外部との連絡を一切遮断し、「加橋かつみさん本人が勝手にいなくなった」という体裁で、加橋かつみさんを脱退させると、

後にこれが「事務所主導の脱退劇」であったことが露呈して、事務所が謝罪する事態に。

このことで、一気に、メンバー間で不信感が芽生えたそうですが、

「渡辺プロダクション」はというと、沢田研二さんと人気を二分していた加橋かつみさんがいなくなったことから、沢田研二さんだけを売り出そうとする方針があからさまとなり、

1969年7月にリリースされた「嘆き」、1969年12月にリリースされた「君を許す」は、いずれも沢田研二さんのソロかのような仕上がりで、

「ザ・タイガース」は、まるで、沢田研二さんのバックバンドのような扱いにされてしまったのでした。

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森本太郎が24歳の時に「ザ・タイガース」が解散

そして、ついに、1970年12月7日には、「ザ・タイガース」は解散を発表し、

翌年1971年1月24日には、事実上、解散ライブとなる「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を日本武道館で行い、解散したのでした。

ちなみに、この「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」は、ニッポン放送で3時間にわたり生中継され、テレビでは、録画されたものが1971年1月30日に放送されたほか、

同年には、ライブアルバム「ザ・タイガース・フィナーレ」が発売されています。

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お読みいただきありがとうございました

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