1963年、モデルの清水秀子さんと結婚するも、1968年に離婚し、その後、1971年に、歌手の石田ゆり(いしだあゆみさんの妹)さんと再婚した、なかにし礼(なかにし れい)さんは、
前妻(最初の妻)清水秀子さんとの間に娘が1人、再婚相手(2番目の妻)石田ゆりさんとの間に息子1人と娘1人、合計3人の子供(息子1人娘2人)が誕生しているといいます。
今回は、そんななかにし礼さんの子供や孫についてご紹介します。

「なかにし礼の再婚相手(2番目の妻)石田ゆりとの馴れ初めは?結婚後の関係は?」からの続き
なかにし礼の娘(長女)は?
なかにし礼さんは、1966年、前妻(最初の妻)清水秀子さんとの間に女の子(長女)が1人誕生しているのですが、
なかにし礼さんは、娘さんが誕生して間もなく、清水秀子さんとは別居して、1968年には離婚しており、その後は、清水秀子さんが娘さんを引き取って育てていたそうで、なかにし礼さんと娘さんの間に交流はなかったそうです。
ただ、娘さんが15歳になった時、
お父さんに会いたい
と、言ったことから、
3人で会い、(清水秀子さんがモデル時代に行きつけだった六本木のお寿司屋さんで)食事をしたそうですが、
(この時、なかにし礼さんは、既に石田ゆりさんと再婚していたそうです)
この時、なかにし礼さんが、娘さんに対してどう思ったのか、また、その後の交流については不明です。
ちなみに、清水秀子さんの著書「それからのわたし」によると、清水秀子さんは、なかにし礼さんと離婚後、なかにし礼さんの色が染み付いた日常から逃れるため、この娘さんを実家に預け、日本を離れて単身渡米し、
数年後、一時帰国し、再びアメリカへ発とうとした時にも、幼い娘さんが、宝物を詰め込んだバスケットを抱えて、
私も連れて行って!
と、泣き叫ぶ中、それを振り切り、タクシーに飛び乗ったそうで、
その時の清水秀子さんにとっては、娘は、切り捨てなければならない”重荷”だったといいます。
(清水秀子さんは、その後、アメリカでの仕事(美容業界)が軌道に乗り、単身渡米から8年後、娘さんを呼び寄せて一緒に暮らすようになったそうです)
なかにし礼の息子(長男)は中西康夫
なかにし礼さんの長男は、音楽プロデューサーの中西康夫さんです。
中西康夫さんは、日本大学藝術学部演劇学科卒業後、東宝演劇部に入社すると、演出助手、舞台監督として、「レ・ミゼラブル」などのミュージカルや演劇を数多く担当し、2004年からは、「株式会社 日音」で、新人アーティストの発掘、育成、プロデュースなどを手掛けているそうですが、

なかにし礼さんと長男・中西康夫さん。
幼い頃は、父・なかにし礼さんが、兄の借金を何億円も肩代わりさせられ、家に借金取りが押しかけてくることがあったことから、こんな環境で子供を育てるわけにはいかないと、大阪府・池田市にある、母・石田ゆりさんの実家に預けられていたそうです。
なかにし礼の息子(長男)中西康夫との関係
そんな中、なかにし礼さんが大阪に仕事で来ることになり、中西康夫さんは、祖父に連れられて、伊丹空港でなかにし礼さんに会ったそうですが、
その時、現れたのは、レイバンのサングラスをかけ、長髪にパンタロンのようなスボンを履いた男の人だったそうで(なかにし礼さん)、
斜に構えて、
おぉ、康夫
と、言われたことから、
中西康夫さんは、怖くて、祖父の足にしがみついたといいます。
それでも、その後、中西康夫さんが小学3年生の時には、なかにし礼さんと一緒に暮らし始めたそうで、中西康夫さんは、それまで会えなかった分、遊んでほしかったそうですが、
なかにし礼さんは、家にいても、ソファに寝転がって、怖い顔をして考え事をしており、
お母さんには、
お父さんは仕事中だから
と、話しかけることを止められたそうです。
(なかにし礼さんは、たまに、キャッチボールをしてくれたそうですが、子供相手に剛速球を投げてきたそうで、避けようとすると、怒られたそうです)
そして、中西康夫さんが中学・高校時代には、息子との距離を縮めようとしたのか、なかにし礼さんには、毎日、ゴルフ練習場へ連れていかれたそうですが、中西康夫さんにとっては、「強制」に感じられ、楽しい思い出にはならなかったそうです。
そんな中、中西康夫さんが高校生の時、アルバイトをしようとすると、
世間体があるからコンビニは困る
という、なかにし礼さんの意向で、なかにし礼さんに関連する舞台の製作会社の現場で働くことになったそうですが、
現場では、「お父さん」ではなく「先生」と呼んでいたそうで、以降、亡くなるまで、中西康夫さんにとって、なかにし礼さんは、「先生」という響きが最も自然なものとなったそうです。
(家では「お父さん」と呼んでいたそうですが)
なかにし礼の息子(長男)中西康夫にとっても、なかにし礼は”大先生”でカッコいい存在だった
そんな中西康夫さんは、舞台の雑務を通じて芝居やコンサートなどライブの魅力に目覚めると、将来は舞台の制作にかかわりたいと思い、日本大学藝術学部へ進学し、卒業したそうですが、
なかにし礼さんは、中西康夫さんを音楽のプロデュースや著作権管理をしている「日音」に入れようとしたそうで、
中西康夫さんは、ここでは、一生、”なかにし礼の息子”という看板から逃げられないと思い、初めてお父さんに激しく抵抗し、演出家やプロデューサーを目指して、お父さんとは異なるフィールドである「東宝」へ入社したそうです。
ただ、結局は、どの世界にいても、”なかにし礼の息子”である事実は変わらず、年齢を重ねるにつれ、その立場を自然に受け入れるようになったそうで、
なかにし礼さんが60代後半に差し掛かった頃、お父さんのサポートと将来の著作権管理を見据え、かつて拒絶した音楽業界(日音)へ移ったのだそうです。
すると、仕事でのなかにし礼さんは、まさに”大先生”だったそうで、
時間があるときにこの仕事やっておいて
と、頼まれた僅か40分後には、
できたか
と、催促が来たそうで、
(周囲は、なかにし礼さんの仕事ということで即座に対応していたそうです)
息子としての甘えは一切許されないと思ったといいます。
また、文章一つとっても、
なかにし礼の息子として恥ずかしくないものを
と、世に出す前に、なかにし礼さんの厳しいチェックが入ったそうで、
ライバル心を抱くことさえおこがましい偉大な父にプレッシャーを感じつつも、
中西康夫さんは、そんな父について、
父は82歳になっても、危険な香りがするカッコいい男でした。家族写真では珍しく柔和な顔をしていますが、外では常に眼光鋭く、色気があった。
ギリギリまで現役で仕事をして、本名の中西禮三ではなく《なかにし礼》の印象を残したまますっといなくなったわけですから・・・・。たぶん願った通りの最期だったと思います。
と、語っています。
なかにし礼の娘(次女)は?
ちなみに、なかにし礼さんの次女は、夏奈子(かなこ)さんというそうですが、職業など、詳しいことは不明です。
ただ、ローランさんという外国人の男性と結婚しているといいます。
なかにし礼の孫は?
また、なかにし礼さんには、長女に娘が1人、次女の夏奈子さんに娘が1人(希亜良(きあら)さん)と、少なくとも2人の孫がいたそうで(2019年時点)、
仕事には厳しいなかにし礼さんも、孫には、とても優しい笑顔を見せていたといいます。

なかにし礼さんの家族写真。(左列上から)ローランさん、夏奈子さん、希亜良さん。(右列上から)中西康夫さん、石田ゆりさん、なかにし礼さん。
さて、いかがでしたでしょうか。
なかにし礼さんの、
- なかにし礼の生い立ちは?幼少期は満洲で裕福も戦後は全財産を失っていた!
- なかにし礼のプロフィール
- なかにし礼の父親と母親は共に裕福な家庭の出身だった
- なかにし礼が幼い頃は裕福な家庭(満洲)で何不自由なく育っていた
- なかにし礼は6歳の時にソ連軍侵攻により満洲から命からがらハルビンに逃げ延びていた
- なかにし礼は8歳の時に引揚船で日本に帰国していた
- なかにし礼は8歳の時に北海道小樽の父親の実家で暮らし始めるも兄の事業の失敗で実家を失っていた
- なかにし礼は15歳の時に兄を頼って上京していた
- なかにし礼は高校卒業後はシャンソン喫茶でアルバイトをしていた
- なかにし礼は大学に進学するも貧乏で中退⇒再入学⇒中退⇒再入学していた
- なかにし礼の若い頃は?石原裕次郎に訳詞家から作詞家への転身を助言されていた!
- なかにし礼は23歳の時の新婚旅行中に石原裕次郎に歌謡曲の歌詞を書くことを勧められていた
- なかにし礼は24歳頃に作詞作曲した流行歌を「石原プロモーション」に持ち込むも連絡はなかった
- なかにし礼は26歳の時にタンゴ歌手の菅原洋一の起死回生のために訳詞を依頼されていた
- なかにし礼は26歳の時に「知りたくないの」を閃いて作詞していた
- なかにし礼が27歳の時に訳詞を手掛けた「恋心」は全く売れなかった
- なかにし礼は27歳の時に心臓発作で45日間も入院していた
- 【画像】なかにし礼の若い頃から死去までの代表曲や著書ほか経歴は?
- なかにし礼は28歳の時に「裕圭子とロス・インディオス」に「涙と雨にぬれて」の作詞を提供するもはほとんど売れなかった
- なかにし礼は28歳の時に「涙と雨にぬれて」が「田代美代子とマヒナ・スターズ」の歌唱により大ヒット
- なかにし礼は29歳の時に作詞を手掛けた「恋のフーガ」「生命のあるかぎり」「いとしのジザベル」がヒット
- なかにし礼は29歳の時に黛ジュンに提供した「恋のハレルヤ」が累計売上120万枚の大ヒット
- なかにし礼は29歳の時に黛ジュンに提供した「天使の誘惑」が日本レコード大賞を受賞
- なかにし礼は36歳の時に北原ミレイに提供した「石狩挽歌」が日本作詩大賞を受賞
- なかにし礼は39歳の時に「時には娼婦のように」、43歳の時に「北酒場」が大ヒット
- なかにし礼は73歳の時に食道ガンになっていた
- なかにし礼は82歳で死去
- なかにし礼の著書
- 小説
- エッセイ・回想
- 詩集
- 翻訳
- なかにし礼は当初は兄・正一は憧れの存在で自慢の兄だった
- なかにし礼の兄・正一は戦後復員すると人が変わったように放蕩生活を送るようになっていた
- なかにし礼の兄・正一はニシン漁の投資に失敗し担保にしていたなかにし家の自宅が失われていた
- なかにし礼の「石狩挽歌」は兄・正一がニシン漁で失敗した時の情景や心情が元になっていた
- なかにし礼の兄・正一は様々な事業を立ち上げては失敗を繰り返していた
- なかにし礼は兄・正一から総額6億円の借金を背負わされ失踪されていた
- なかにし礼は兄・正一に絶縁を宣言していた
- なかにし礼は兄・正一の死に万歳していた
- なかにし礼の著書「兄弟」はテレビドラマ化もしていた
- なかにし礼が関与していた「風吹ジュン誘拐事件」とは?
- なかにし礼は「風吹ジュン誘拐事件」の現場にいた?
- なかにし礼は「風吹ジュン誘拐事件」の黒幕?兄のトラブルに巻き込まれていた?
- なかにし礼は「週刊ポスト」の記事を巡り記者を告訴していた
- なかにし礼は「日本音楽事業者協会(音事協)」に圧力をかけられていた?
- なかにし礼は27歳の時に心臓発作に見舞われていた
- なかにし礼は心臓病を「自律神経失調症」だと誤診されていた
- なかにし礼は医師の誤診により心臓病に悩まされるようになっていた
- なかにし礼は73歳の時に食道ガンが見つかり余命8ヶ月と診断されていた
- なかにし礼は「陽子線治療」を受け食道ガンが寛解していた
- なかにし礼は76歳の時に気管支に近いリンパ節にガンが再発していた
- なかにし礼の死因は?
- なかにし礼の姪で謎に包まれた歌手・森田童子について
- なかにし礼は死後、遺族によって未発表だった小説「血の歌」が出版され森田童子が姪であることが明らかになっていた
- なかにし礼が「血の歌」を執筆当時の1995年に発表しなかった理由とは?
- なかにし礼は森田童子が15歳から19歳の時まで一緒に暮らしていた
- なかにし礼は森田童子の叔父であることを生涯隠していた
- なかにし礼の前妻(最初の妻)は清水秀子
- なかにし礼は前妻(最初の妻)清水秀子と5年で離婚していた
- なかにし礼が語る前妻(最初の妻)清水秀子との離婚理由
- なかにし礼の前妻(最初の妻)清水秀子が明かした離婚理由
- なかにし礼の再婚相手(2番目の妻)石田ゆりとの馴れ初めは?
- なかにし礼の再婚相手(2番目の妻)石田ゆりは無欲で上昇志向や覇気が感じられなかった
- なかにし礼は再婚相手(2番目の妻)石田ゆりに軽い気持ちでいきなりプロポーズしていた
- なかにし礼の再婚相手(2番目の妻)石田ゆりとの結婚後の夫婦仲は?
- なかにし礼は再婚相手(2番目の妻)石田ゆりに対し愛情を再発見していた
- なかにし礼は再婚相手(2番目の妻)石田ゆりとの結婚生活を通して「結婚は最高」と言い切っていた
- なかにし礼の娘(長女)は?
- なかにし礼の息子(長男)は中西康夫
- なかにし礼の息子(長男)中西康夫との関係
- なかにし礼の息子(長男)中西康夫にとっても、なかにし礼は”大先生”でカッコいい存在だった
- なかにし礼の娘(次女)は?
- なかにし礼の孫は?
について、ご紹介しました。
満洲での王子様のような生活から一転、逃亡生活を経て命からがら帰国すると、今度は、兄に事業失敗の借金返済を負わされるも、シャンソンの訳詞家を経て、歌謡曲の作詞家になると、
その鋭い感性とひらめきで「涙と雨にぬれて」「知りたくないの」を大ヒットさせるほか、その後も、「天使の誘惑」「石狩挽歌」「北酒場」など、4000曲にも及ぶ作品を通じて昭和・平成の音楽シーンに革命を起こした、なかにし礼さん。
そんななかにし礼さんが遺した、人間の深淵や時代の息吹を鮮やかに切り取った言葉の数々は、これからも日本人の記憶の中で色褪せることなく輝き続けるに違いありません。
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幼い頃は、満洲で酒造業を興して大成功を収めた両親のもと、裕福な家庭で音楽や芸能が好きな家族の影響を受けて育つも、 1941年に太平洋戦争が起き、1945年、7歳の時、満洲がソ連軍の侵攻を受けると、逃避行の末、終戦後、よう …








