「パパはニュースキャスター」「古畑任三郎」など、数々のテレビドラマでダンディな役を演じ、人気を博した、田村正和(たむら まさかず)さん。今回は、そんな田村さんのご家族と生い立ちについてご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
田村さんは、1943年8月1日生まれ、
京都府京都市右京区嵯峨野のご出身(東京都世田谷区成城育ち)、
身長172センチ、
体重55キロ、
血液型はA型、
学歴は、
成城学園高校
⇒成城大学経済学部卒業
(中学・高校時代はバスケットボール部に所属し、関東大会まで進出されています)
趣味は、
読書、映画鑑賞、たき火、ゴルフ、
ちなみに、「田村正和」は本名です。
父親は映画俳優の阪東妻三郎
田村さんのお父さんは、二枚目映画スターの阪東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)さんです。
阪東妻三郎さん。
坂東さんは、1916年、16歳の時、歌舞伎俳優の11世片岡仁左衛門さんの内弟子となるも、雑用ばかりでなかなか舞台に上がらせてもらえなかったことから、 因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ、1922年には映画俳優に転身。
翌年の1923年、映画「鮮血の手型」に出演すると、一躍脚光を浴び、1924年には、「恐怖の夜叉」「討たるる者」「江戸怪賊伝 影法師 前・後篇」「墓石が鼾する頃」などで、ニヒルで反抗的な主人公を演じ、たちまちスターダムに上り詰め、「阪妻(バンツマ)」の愛称で親しまれるようになります。
なかでも、「江戸怪賊伝 影法師 前・後篇」は大好評で、時代劇俳優として不動の地位を確立されました。
「江戸怪賊伝 影法師」より。左が阪東妻三郎さん。
4兄弟の3番目
田村さんは、4人兄弟の3番目で、
まず、一番上のお兄さんは、俳優の田村高廣(たむら たかひろ)さん。
4兄弟の中でも、最もお父さんの阪東妻三郎さんの面影を残す名優でしたが、2006年、77歳で、「脳梗塞」のため、急逝されています。
田村高廣さん。
そして、二番目のお兄さんは、田村俊磨(たむら としま)さんといい、子役として映画に出演されていたこともあったそうですが、高廣さんや正和さんのマネージャーを経て、芸能界を引退すると、その後は、「田村産業株式会社」を設立されています。
(現在は「タムサプライヤ」と改称。取扱商品は、水防止剤、屋外用テーブルチェア、パラソル、健康志向食品、炭酸泉装置、除菌・消臭剤とのことです。)
田村俊磨さん。
また、弟さんは、俳優の田村亮(たむら りょう)さんで、「土曜ワイド劇場」などの2時間ドラマや時代劇に多数出演されています。
田村亮さん。
ということで、よく、「田村3兄弟」と言われていますが、実際には、実業家のお兄さんも合わせて、「4兄弟」です。
ちなみに、弟の亮さんは、正和さんについて、
(子どもの頃は)よく面倒を見てもらった。優しかったですよ。でも、時には、レスリングみたいな取っ組み合いの喧嘩も。ごく普通のそこらじゅうにいる兄弟でしたよ。
中学の時なんか、同級生の女の子が、正和さんが駅で歩いてたよ!とか、わざわざ言ってくる。歩いてても不思議はないんだけど、いちいち僕に報告してくるほど、ファンみたいな子達がいっぱいいた。
と、明かされていました。
(そのほか、異母兄弟には、関西を中心に活動されている、俳優の水上保広さんもおられ、「5兄弟」でもあります。)
幼少期は?
さて、田村さんは、映画スターのお父さん・阪東妻三郎さんと専業主婦のお母さんの間に京都で誕生すると、1000坪以上もある敷地面積の中に建てられた巨大な屋敷に、庭先にはテニスコートが2面、さらには、庭に川まで流れているという家庭環境の中、裕福で何不自由なく育ちます。
(京都・太秦にある「東映京都撮影所」も、もともとは、阪東妻三郎さんが大正末期に設立した撮影所なのだとか)
お父さんは、渡り廊下でつながった別棟で生活されていて、食事も別々。普通の親子の様に手をつないで歩いたり、映画を観に行ったりすることもなかったそうですが、
毎年夏には、丹後にある宮津の定宿に連れて行ってくれ、一緒に遊んだり、泳いだりしてくれたそうで、そのことが、幼い田村さんには、とてもうれしかったそうです。
また、田村さんは、幼い頃から、なんとなく、お父さんのしている仕事をしたいと思われていたそうですが、そのことを知った阪東妻三郎さんは、とても喜ばれたそうで、
田村さんは、
僕にあとを継がせたかったんでしょうね、丹下左膳の扮装などを教えてくれました。
と、語っておられました。
「田村正和のデビュー当初はイマイチも眠狂四郎でブレイク!」に続く