1980年代後半から1990年代前半、ロックバンド「筋肉少女帯」としてブレイクされた、大槻ケンヂ(おおつき ケンヂ)さん。2000年にバンド脱退後は、作家やタレントして活動されていましたが、2006年、再び「筋肉少女帯」に復帰し、活動されています。
漫画少年~「ドテチンズ」を結成
大槻さんは、中学生の時、
漫画家の蛭子能収さんや諸星大二郎さんに憧れ、
友人で、現在、作曲家として活動されている、
内田雄一郎さんとともに、
漫画家を目指されていたそうです。
しかし、次第に、
「YMO」「ヒカシュー」「P-MODEL」
などのニューウェーブや、
「頭脳警察」「JAGATARA」「ザ・スターリン」
などのロックやパンクなどの、
音楽に目覚められたそうで、
1979年、13歳の時、
内田さんの誕生日会において、友人たちと、
バンド「ドテチンズ」(別名ザ・ドンズ)を結成。
ただ、エレクトーンが弾ける内田さん以外に、
楽器が演奏できるメンバーがおらず、
大槻さんは、健康青竹踏みを、
楽器の代わりに使っておられたのだとか(^_^;)
インディーズデビュー
そんな大槻さんは、中学卒業とともに、
「ドテチンズ」を解散すると、
高校入学後の1982年、再び、
内田さんとともに、「筋肉少年少女隊」を結成。
同年4月には、ライブハウス「新宿JAM」において、
「伝染病解散ライブ」と称し、
ライブデビューを果たされています。
また、同時期、内田さんの高校の先輩であった、
ケラリーノ・サンドロヴィッチさんが、
「ドテチンズ」の音源を聞いて、興味を示されたことから、
大槻さん、内田さん、ケラリーノさんの3人で、
「空手バカボン」を結成。
翌年の1983年には、
ケラリーノさん主宰の「ナゴムレコード」から
インディーズデビューされています。
(「空手バカボン」は、現在も断続的に活動されています)
筋肉少女帯
そして、1984年、大槻さんは、
「筋肉少年少女隊」を「筋肉少女帯」に改名すると、
ナゴムレコードより、インディーズデビュー。
顔面をうどん粉で白く塗られ、
上半身を包帯でぐるぐる巻きにして、
歌唱されたのでした。
初期の頃の「筋肉少女帯」
大槻さんも、この頃のバンド活動については、
当時は学園祭バンドみたいなノリで、
完全にキワモノ。
とおっしゃっていました♪
「高木ブー伝説」
そんな「筋肉少女帯」は、
インディーズで活動中の1987年、
ナゴムレコードより、
自主制作EP「高木ブー伝説」を発売すると、
たちまち話題になり、
「冗談画報」や「11PM」などの、
テレビ番組に出演するようになります。
しかし、この楽曲の歌詞が問題となり、
「ドリフターズ」の関係者から苦情の電話が。
後に、この電話は、
イタズラだったことが判明するのですが、
この一件で、「高木ブー伝説」は自主回収となり、
販売中止になってしまうのでした。
メジャーデビュー
しかし、1988年6月には、
アルバム「仏陀L」、シングル「釈迦」で、
メジャーデビューを果たすと、
このアルバムの収録曲、
「日本印度化計画」が人気を博し、
続く、1989年には、
セカンドシングル「元祖高木ブー伝説」
(「高木ブー伝説」のリメイク)が大ヒットを記録したのでした。
ただ、実は、この「元祖高木ブー伝説」は、
今度は本当に、ドリフターズ所属事務所から、
激しい反発や抗議を受け、一時はお蔵入り。
さらに、バンド存続の危機に、
直面してしまうのですが、
高木ブーさんご本人が、
若い奴が馬鹿やって頑張ってるんだから、
許してあげようよ。
と、寛容な態度を見せられたことから、
発売することができたのだそうです。
大ブレイク!
その後、「筋肉少女帯」は、
バンドブームの波に乗ったことや、
大槻さんが、「オールナイトニッポン」の、
パーソナリティを務められたこともあり、
「筋肉少女帯の深夜改造計画」という、
看板番組を持つほどにブレイク!
「筋肉少女帯の深夜改造計画」より。
(左から)遠藤ミチロウさん、久本雅美さん、大槻さん。
1990年2月には、
武道館で、初の単独ライブを成功させ、
以降、1994年まで、
4度の武道館ライブを成功させています。
脱退
そして、バンドブームが去った後も、
メジャーで活躍し続けていた「筋肉少女帯」ですが、
1998年には、所属事務所の経営が破綻し、
メンバーのモチベーションが低下するなど、
大槻さんは、バンド活動に限界を感じるようになり、
1999年、テコ入れのため、
「大槻と内田以外のメンバー一新による活動再開」を示唆。
すると、リードギターの橘高文彦さんが、
脱退を表明し、大槻さんは、
「大槻の独断による橘高外し」
として、ファンから、
大バッシングを受けてしまったのでした。
これを受け、大槻さんは、事態の収拾を図るため、
公式サイトに弁明の書き込みをするのですが、
それが逆に火に油を注ぐ形となり、
エスカレートしたファンが、
大槻さんの人格を攻撃するまでに。
とうとう、精神的に参ってしまった大槻さんは、
翌年の2000年、自ら脱退を表明したのでした。
活動凍結から復活へ
こうして、「筋肉少女帯」は、
事実上、解散状態となったのですが、
残された、内田さんと本城聡章さんが、
バンドを守ることを決意。
解散ではなく、
「活動凍結」とされたのでした。
その後、大槻さんは、執筆活動や、
新しいバンド「特撮」を立ち上げるなどしていたのですが、
疎遠となっていた「筋肉少女帯」の一部のメンバーと、
イベントなどを通じて、徐々に仲直りされ、
2006年には、「筋肉少女帯」としての活動を再開。
2008年には、14年ぶりとなる、
5度目の武道館ライブを成功させています。
2008年の武道館ライブより。
さて、いかがでしたでしょうか?
様々な思いや出来事が交錯し、
一旦は脱退、そして、復帰された大槻さんですが、
やはり、原点は、「筋肉少女帯」
ということなのでしょうね。
今後も、パワフルなステージを、
見せて欲しいですね。
応援しています!!