テレビドラマはもちろん、バラエティ番組や情報番組にも数多く出演し、マフラーをねじねじするスタイルでお馴染みの、中尾彬(なかお あきら)さんですが、実は、幼い頃から絵の才能を発揮しており、絵の道に進もうとしていた頃もあったといいます。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

中尾さんは、1942年8月11日生まれ、
千葉県木更津市のご出身、

身長175センチ、

血液型はO型、

学歴は、
木更津市立第二小学校
⇒木更津市立第二中学校
⇒千葉県立木更津第一高等学校(現・木更津高校))
⇒武蔵野美術大学油絵学科(現・造形学部油絵学科)中退


高校時代の中尾さん。

趣味は、
万年筆集め、料理、読書、食べ歩き、相撲観戦、沖縄三味線、

特技は、
書、絵画(油絵、日本画)、陶芸、写真、落款製作、漆塗、

ちなみに、「中尾彬」は本名です。

ねじねじ

中尾さんといえば、「彬(中尾)巻き」と呼ばれる、マフラーをぐるぐるに巻いた、「ねじねじマフラー」がトレードマークですが、もともとは、1990年代前半、海外ロケの移動中に飛行機の中でイライラしながらマフラーをよじっていると、取れなくなってしまい、そのままにしているところを、共演者の神田正輝さんから、

オシャレだな(レストランのシェフみたいで)

と、ほめられたことがきっかけで、折からのネクタイ嫌いも相まって、あえて、ねじるようになったそうで、

今では、春夏秋冬、冠婚葬祭と、使い分け、葬儀の際は黒のマフラーを着用、夏の間は、「ねじねじ」がプリントされたTシャツを着用するなど、「ねじねじ」の所有本数は300本にものぼり、「ねじねじ」は、すっかり中尾さんの一部となっているようです。

(奥さんの池波志乃さんがこの巻き方を「ねじねじ」と呼んでいることから、最近ではこの呼名が定着しています♪)


ねじねじマフラーをした中尾さんと池波志乃さん。

ねじねじ万年筆?

また、中尾さんの趣味の一つに万年筆集めがあり、その数は50本で、なんと総額500万円以上もするそうですが(一番高い万年筆は1本56万円)、

中尾さんが、2007年に大病を患い、退院された際、島田紳助さんに、キャップのクリップ部分が、中尾さんのトレードマークである「ねじねじ」になっていて、ペン先に中尾さんの顔が描かれている万年筆を贈られたそうで、中尾さんは、この万年筆を、お金に変えがたい宝物として大切にされているとのことでした。


ねじねじ万年筆♪

中学生のとき長谷川一夫に弟子入りを志願していた

さて、中尾さんは、酒屋を営むお父さんのもと、5人兄弟の長男として誕生すると、小学生の時には、木を削った自作の筆で描いた絵が、絵画コンクールの「文部大臣賞」を2年連続で受賞するなど、早くから絵の才能を発揮されていたそうですが、

1950年、中学生の時、家の近所で、映画の撮影が行われているのを見て感動し、この映画で主演を務めていた、昭和の映画スター・長谷川一夫さんに、

大きくなったら俳優になりたい

と、いきなり、弟子入り志願。

ただ、長谷川さんには、

高校を出たら、またここに来なさい

と、やんわり断られてしまったそうです。

(中尾さんは、後に、長谷川さんのこの言葉の意味について、当時は、「単に時間の猶予を与えられたのだ」と思っていたが、現在では「高校の勉強は最低限勉強しておくべきものだから、しっかり勉強しなさい」という意味だったのだと、考えているそうです)

中・高校時代はスポーツ万能だった

そんな中尾さんは、中学生の時は、勉強はしなくても成績は良く、スポーツも得意だったそうで、高校進学後は、バレーボール部に入部し、キャプテンを務められていたそうです。

ただ、好きな女の子が陸上部だったことから、その後、陸上部へ転部。すると、陸上部部員として出場した走り幅跳びでも千葉県大会4位となり、国体にも出場するなど、スポーツ万能な少年だったそうです。

(ただ、あまりにもハードな練習だったため、血尿が出たそうです)

絵の才能を発揮するも「日活第5期ニューフェイス」に応募し合格

その後、中尾さんは、1960年、18歳の時、油絵「石の花」が千葉県美術展に入選し、翌年の1961年には、絵の道へ進むため、武蔵野美術大学油絵学科に入学。

ただ、それでも、俳優への夢が捨てきれなかったのか、1962年、20歳の時、「日活第5期ニューフェイス」のオーディションを受けると、応募者4000人の中から、見事合格。

こうして、中尾さんは、1962年、「日活」に入社されたのでした。

(同期には高橋英樹さんや松原智恵子さん、一期下には藤竜也さん、二期下には渡哲也さんと、錚々(そうそう)たるメンバーがそろっていたそうです)

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「日活」を退社し絵画修業のためフランスに留学していた

そんな中尾さんは、後年、

(石原)裕次郎さんや小林旭さんみたいにスターを見ているから、昔の役者は“今に見ていろ!自分も”という強い気持ちがあった

と、語っており、

当時は、やる気満々で、同年、「夢がいっぱい暴れん坊」で映画デビューを果たされたのですが・・・

やはり、絵の道も捨てきれなかったようで、1963年、1年も経たずに「日活」を退社すると、武蔵野美術大学も中退し、絵の修業のため、フランスへ留学されたのでした。

「中尾彬の若い頃は「暴れん坊将軍」の悪代官役でブレイクしていた!」に続く

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