4歳の頃から、既に、童謡ではなく流行歌に強い興味を示すと、幼少期から歌手としての素質を見せ、その歌声で多くの人を魅了していたという、美空ひばり(みそら ひばり)さんですが、当時の社会通念から、なかなか受け入れられなかったといいます。

今回は、美空ひばりさんの、生い立ち(幼少期から横浜国際劇場準専属契約まで)をご紹介します。

美空ひばり

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美空ひばりのプロフィール

美空ひばりさんは、1937年5月29日生まれ、
神奈川県横浜市磯子区滝頭の出身、

身長147センチ、

血液型はO型、

学歴は、
横浜市立滝頭小学校
⇒精華学園高等部卒業

ちなみに、本名は、加藤和枝(かとう かずえ)で、愛称は、”御嬢(おじょう)”です。

美空ひばり
1歳の時の美空ひばりさん。

美空ひばりは幼少期から歌の才能を発揮していた

美空ひばりさんは、魚屋「魚増」を営むお父さんの加藤増吉さんとお母さんの喜美枝さんのもと、4人兄弟姉妹(妹1人と弟2人)の長女として誕生すると、

歌が好きだった両親の影響により、4歳の時には、既に、童謡ではなく流行歌に興味を示したそうで、外出中にレコード屋を見つけると、どんどんと中に入って行き、自分で選んだ流行歌を両親にせがんで買ってもらい、レコードが擦り切れるまで、繰り返し聴いたそうです。


4歳頃の美空ひばりさん。

美空ひばりは6歳の時には”歌の天才少女”として有名になっていた

そんな美空ひばりさんは、6歳の時には、お父さんが出征する前の壮行会(新しい任務に向かう人を激励するための会)で、お父さんのために「九段の母」という歌を歌ったそうですが、

壮行会に集まった人達は、美空ひばりさんの歌に感銘して涙したそうで、美空ひばりさんは、お父さんと別れる悲しさよりも、大勢の人の前で歌い、拍手される喜びを強く感じたのだそうです。

また、これを目の当たりにした美空ひばりさんのお母さんは、美空ひばりさんの歌の才能を確信したそうで、その後、美空ひばりさんは、慰問活動として、海兵団や軍需工場を訪れては、歌を歌うようになったそうで、やがて、美空ひばりさんは、”歌の天才少女”として有名になったのだそうです。

美空ひばりは8歳の時に父親に「ミソラ楽団」を結成されていた

そして、1945年、美空ひばりさんが8歳の時には、太平洋戦争が終わり、お父さんが復員すると、お母さんがお父さんに楽団結成を持ちかけ、同年9月には、素人ばかりが集まった「ミソラ楽団」を結成したそうで、

美空ひばりさんは、3ヶ月後の12月には、横浜の磯子にある「アテネ劇場」で初舞台を踏んだのだそうです。


「ミソラ楽団」

ちなみに、この時、美空ひばりさんは、三度笠(さんどがさ)姿で花道に登場し、「旅姿三人男」を歌ったそうですが、これはお母さんのアイディアだったそうで、歌手が扮装して歌を歌うようになった始まりだと言われています。

「ミソラ楽団」
「ミソラ楽団」のメンバーが掲載された当時のパンフレット。

美空ひばりは9歳の時に「第1回オール横浜総合芸能コンクール」に出場し高く評価されていた

そんな美空ひばりさんは、翌年の1946年11月、9歳の時には、「第1回オール横浜総合芸能コンクール」で、ハワイアンバンドの軽快なリズムの中、白いリボンに赤いドレスといった出で立ちで、ウクレレを抱いて登場し、「小雨の丘」を歌唱すると、

そのエンターテイメント性あふれる歌いぶりに、審査員の井上正夫さんからは、

歌以上に、舞台度胸は満点。人気投票だったら、間違いなく第1位だ。

と、評価されたのだそうです。

(残念ながら、優勝には至りませんでした)

「第1回オール横浜総合芸能コンクール」
「第1回オール横浜総合芸能コンクール」より。

美空ひばりは9歳の時に「NHKのど自慢素人音楽祭」で理不尽な理由で不合格となっていた

また、美空ひばりさんは、1946年12月には、「NHKのど自慢素人音楽祭」にも出場し、「悲しき竹笛」(「リンゴの唄」の説もあり)を歌うと、合格を確信したそうですが・・・

鐘は鳴らず、まさかの不合格だったといいます。

というのも、不合格の理由は、

子供が大人の歌をうたうのは、どうも影響がよくないので・・・

と、子供でありながら、大人の歌を堂々と歌い上げたことだったそうで、

その理不尽さに、美空ひばりさんは涙を流したのだそうです。

美空ひばりは9歳の時に「悲しき竹笛」が古賀政男に絶賛されるもデビューすることはできなかった

それでも、なんとか娘をデビューさせたいお母さんは、1947年春、美空ひばりさんが9歳の時には、横浜市で「市民によるのど自慢大会」が行われた際、

審査員として来ていた古賀政男さんの楽屋に、美空ひばりさんを連れて強引に乗り込み、娘の歌を聴いて欲しいと頼み込むと、

古賀政男さんは、美空ひばりさんが歌う「悲しき竹笛」を聴き、その才能を絶賛したそうですが、やはり、当時の社会においては、少女が大人の歌を歌うことへの反発が非常に大きく、デビューとはならなかったのだそうです。

美空ひばりは10歳の時にバス事故で九死に一生を得て運命を感じ、歌手になる決意をしていた

そんな中、美空ひばりさんは、同年(1947年)9月、10歳の時、お母さんと四国を巡業中、乗っていたバスが、前方から来たトラックに衝突され、そのはずみで谷の方に横転。

幸い、バスはかろうじて途中の大きな桜の木に引っ掛かり、転落は免れるも、後方に乗っていた美空ひばりさんは、大人の下敷きになったうえ、ガラスの破片で左手首を大きく切る大ケガをして気絶したそうで、

(瞳孔が開き、仮死状態になっていたそうです)

たまたま、村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜、なんとか意識を取り戻すことができたそうですが、

このことで、お父さんは、美空ひばりさんが歌手になることに強く反対し、「ミソラ楽団」も解散となったのだそうです。

しかし、美空ひばりさんは泣きじゃくって、お父さんに抵抗し続けると、ついには、お父さんも折れたそうで、

美空ひばりさんは、後に、

私の人生のテーマはそのとき決まりました。歌手になれないなら、自殺しちゃおうと思ったんです。

あの四国の事故で死んでいたはずの生命が助かったときに思ったんです。私の命を救ってくれた、運命みたいなものがあるに違いないって。

私は歌い手になるために生まれてきたんだ。だから神様が、生命を救ってくれたんだって。

と、語っています。


当時の美空ひばりさん(左)と美空ひばりさんのお母さん(右)。

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美空ひばりは10歳の時に横浜国際劇場と準専属契約を結んでいた

こうして、歌手として活動を再開した美空ひばりさんは、同年(1947年)10月には、喜劇役者・伴淳三郎さんが座長格の、日劇小劇場「新風ショー」に出演して靴磨きの娘を演じ、初めて自分の持ち歌「あんたとあたい」を披露すると、

同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場の支配人だった福島通人さんにその才能を認められて、横浜国際劇場と準専属契約を結び、福島通人さんがマネージャーとなって、次々と舞台の仕事が入ってきたそうで、

以降、美空ひばりさんは、横浜国際劇場のほかにも、浅草国際劇場など活動の場を広げていったのだそうです。

(この時、それまでの「加藤和枝」(本名)から、芸名「美空ひばり」に改名したそうです)

美空ひばり
1949年、小学6年生の時の美空ひばりさん。(浅草国際劇場の楽屋にて)

「【画像】美空ひばりの若い頃は?デビューからの代表曲や経歴を時系列まとめ!」に続く

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