三味線弾きとして才能を発揮するも、アメリカ巡業中に出会った、ハリウッドスターのジェームズ・ディーンに感化され、1954年に映画界に入られた、勝新太郎(かつ しんたろう)さん。当初は、白塗りの美形型がもてはやされていた時代だったため、なかなか役に恵まれず、陰の薄い脇役に甘んじる日々を過ごされていたのですが、1960年に、映画「不知火検校」で汚れ役に転じたことで、強烈な存在感を放つようになります。


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年齢は?出身は?身長は?本名は?兄は?

勝さんは、1931年11月29日生まれ、
東京市深川区(現在の東京都江東区)のご出身です。

身長173センチ、

血液型はO型、

本名は、
奥村 利夫(おくむら としお)、

学歴は、
旧制法政中学校中退、
(現在の法政大学中学高等学校)

お父さんは、
三味線奏者の杵屋勝東治(きねや かつとうじ)さん、

お兄さんは、
俳優の若山富三郎(わかやま とみさぶろう)さん、

だそうです。

三味線で才能を発揮

勝さんは、お父さんが三味線奏者で、
主に歌舞伎の裏側で伴奏をされていたことから、

1938年、6歳の時に、長唄と三味線を習うため、
杵屋勝貴賀さんに弟子入りされると、
たちまち、三味線弾きとして才能を発揮。

1948年には、17歳で二世杵屋勝丸を襲名し、
お父さんの代稽古(師匠の代理として弟子に稽古をつけること)
を務められるまでになると、

ジャズを三味線でアレンジした、「たけくらべ」を発表するなど、
天才少年の名をほしいままにされます。

ジェームズ・ディーンとの出会い

そして、21歳頃には、お父さんに、
長唄と三味線のコンビをお兄さんの若山富三郎さんと組まされ、
(勝さんが三味線、若山さんは長唄)

お父さんと一緒に、
劇団のバックとしてアメリカに巡業されるのですが、

ハリウッドのスタジオに見学に行った際、

「これからの映画界を背負って立つ、未来のスーパースター」

と紹介された、ジェームズ・ディーンは、

よれよれのシャツを着てジーパンをはいた、
ボサボサ頭の青年だったため、

(当時、日本のスターは、白塗りの二枚目で、
 雲の上にいるような存在だったことから)

勝さんは、

「日本のスターとは全然違う」

と、衝撃を受け、同時に、

「こういうのをやってみたい」
「自分でもできるんじゃないか」

と思われたのでした。

「花の白虎隊」で映画デビュー

こうして、映画に新たな可能性を見いだされた勝さんは、
1954年、「大映」京都撮影所と契約を結び、
スター候補生として入社。

同年には、「花の白虎隊」
で映画デビューされるのですが、

この映画では、同じくスター候補生として入社した、
市川雷蔵さんが主役、花柳武始さんが準主役で、
勝さんは、白虎隊士のひとりとして脇役に甘んじることに。

「花の白虎隊」より。市川雷蔵さん(左端)と、
勝さん(前列右端)。

ただ、勝さんは、大映社長の永田雅一さんに、
大変可愛がられていたことから、

翌年の1954年には、
映画「お富さん(切られ与三郎)」で主演に抜擢。

当時の他の映画スター同様、
白塗りの二枚目を演じられています。

お富さん

市川雷蔵がライバル?

ところで、勝さんは、市川雷蔵さんとは、
年齢が同じ、入社も同時期、さらに、
同じ「大映京都」所属ということもあり、
デビュー以来、ことごとく周囲から比較されるのですが、

実は、デビューの時から、市川さんとは差をつけられており、
ギャラも待遇もすべてが市川さんのほうが上で、

勝さんのギャラが1本3万円に対し、
市川さんは、1本30万円プラスハイヤー送迎付きという、
破格の待遇を受けていたのでした。

(悔しかった勝さんは自費でハイヤーを雇ったそうです)

というのも、当時の日本(時代劇)では、
白塗り二枚目の美男型スターが全盛の時代で、
長谷川一夫さんが時代劇スターとして君臨。

長谷川一夫さん

太い眉に、いかつい顔の勝さんには、
白塗りの若侍は似合わず、

美青年タイプであった市川さんこそが、
そのような役にピッタリだったのでした。

それでも、その後も、勝さんの白塗り二枚目時代は続き、
ついには「長谷川一夫のイミテーション」と揶揄されるまでになると、

「初春狸御殿」より。(左から)市川雷蔵さん、
若尾文子さん、勝新太郎さん。

主演作のあまりの不人気ぶりに、映画館からは、

いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ。

と、苦情が絶えず寄せられるほどに。

(ちなみに、市川さんは1955年に主演作が大ヒットを記録。
 名実ともにスターの座につかれています。)

そして、次第に、

1957年「大阪物語」
1958年「弁天小僧」
1959年「薄桜記」

「薄桜記」より。勝さん(左)と市川雷蔵さん。

など、市川さんの主演作品で脇役をされたり、
1958年「怪猫呪いの壁」やチンピラ映画のような、
いわゆるB級映画に出演されるようになっていったのでした。

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「不知火検校」「悪名」でブレイク

しかし、1959年、
大映のオールスター映画「次郎長富士」で、
「森の石松」役に起用されると、
豪快でユーモラスなキャラがハマリ役に。

「次郎長富士」より。(左から)長谷川一夫さん、
勝さん、京マチ子さん。

そして、そんな折、

「白塗りを辞めて汚れ役をやってみないか」

と、江戸時代を舞台に、しがない鍼(はり)医者が、
非道の限りを尽くして出世していく物語の、
オファーが会社から来たそうで、

1960年、映画「不知火検校」で、
野心家でありながらも、憎みきれない座頭を、
人間臭を発散させながら生き生きと演じられると、

翌年の1961年には、初の現代劇、映画「悪名」で、
無類な暴れん坊である、一匹狼のやくざの親分、朝吉役を、

正反対の、モダンでインテリな弟分、
「モートルの貞(田宮二郎さん)」とのコンビで人気を博し、
ついに、勝さん初のヒット作となったのでした。

「座頭市と兵隊やくざ!子連れ狼も制作!顔役では監督も!」に続く

「悪名」より。勝さん(左)と田宮二郎さん(右)。

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