1967年、22歳の時、文化放送に入社して以来、50年以上の長きに渡り、司会者として活躍するほか、タレントとしても人気を博してきた、みのもんたさん。今回は、そんなみのさんの生い立ちについてご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?
みのさんは、1944年8月22日生まれ、
東京都世田谷区祖師谷の出身、
身長167センチ、
血液型はA型、
学歴は、
世田谷区立祖師谷小学校
⇒立教中学校(現・立教池袋中学校)
⇒立教高等学校(現・立教新座高等学校)
⇒立教大学経済学部卒業
趣味は、
食べ歩き、飲み歩き、庭いじり、
特技は、
ゴルフ、スキー、テニス、乗馬、
だそうです。
本名は?芸名の由来は?
みのさんの本名は、「御法川法男 (みのりかわ のりお)」なのですが、芸名の「みのもんた」は、みのさんが文化放送のアナウンサーだった頃、放送作家の野末陳平さんが、みのさんの上司に頼まれて姓名判断で名付けたそうで、
みのさんは、当時、「御法川」を略して「みの」と呼ばれていたことから、上の名前は「みの」、下の名前は、申(さる)年生まれで、さる顔、当時人気があった競走馬「モンタサン」に掛けて、「もんた」としたそうです。
(野末さんは姓名判断に造詣が深かったそうです)
ちなみに、野末さんは、2020年8月25日、自身のツイッターで、
みのもんたの顔を最近テレビで見なくなった。まさに一世風靡したみのもんたの名づけ親はぼく。文化放送のアナウンサーだったころに彼の上司に頼まれて姓名判断で命名した。
古賀政男先生の依頼で女性演歌歌手の芸名もつけた。こっちはみの程バカ売れしないでイマイチだった。姓名判断も当り外れがある。
と、ツイートしています。
また、愛称は、「みの(さん)」で、徳光和夫さんや和田アキ子さんからは「みのちゃん」と呼ばれているそうです。
母親は戦争に怒り国を呪っていた
みのさんのお兄さんの正昭さんは、みのさんが産まれる1ヶ月前の1944年7月21日(戦争中)に、3歳で他界しているのですが、その通夜の席でお父さんに赤紙(兵士として召集するために個人宛に発布された令状)が届いたそうで、(兵士になることは名誉な為)弔問に訪れた人はみな「バンザイ」と言ったそうです。
ただ、この時、みのさんを妊娠中だったお母さんは、その後、途方に暮れ、国を呪ったそうで、幸い、終戦後、お父さんは戦地から無事に戻ったそうですが、お母さんの戦争に対する怒りは終生変わらず、
みのさんは、そんなお母さんから、
日本は戦争をしてどれだけの人間を死なせてきたか、よく考えなさい
と、何百回も聞かされて育ったそうです。
(そのため、みのさんは、現在も反戦を訴える姿勢をとっているそうです)
幼少期は森繁久彌が自宅の離れに下宿していた
そんなみのさんは、水道メーター製造販売会社「日国工業」を経営するお父さんのもと、3人兄弟(兄と妹)の次男として誕生すると、幼い頃は、世田谷区の自宅の離れに下宿していた俳優の森繁久彌さんから、森繁さんの出演する映画のチケットをもらい、よく映画を観に行くほか、
(伯父さんが森繁さんと一緒にお芝居をしていたそうで、その縁で、世田谷区の自宅の離れに森繁さんが下宿していたそうです)
家の近所に撮影所があったことから、映画の撮影を家族でよく観に行き、日常的に映画スターを見ていたそうで、小学校に入学した頃には、映画やお芝居に興味を持つようになっていたそうです。
また、幼い頃は、近所の雑木林でトンボを捕ったり、小川でフナ釣りをするほか、時々、小田急線で多摩川まで泳ぎに行くなど、自由にのびのびと育ったそうです。
「みのもんたは徳光和夫に感化されアナウンサーになっていた!」に続く