「夜明けのスキャット」に続き、1970年7月には「手紙」が70万枚の大ヒットを記録した、由紀さおり(ゆき さおり)さん。その後は、「NHK紅白歌合戦」に10年連続で出場されるほか、「8時だョ全員集合」「ドリフ大爆笑」などバラエティ番組でも活躍されていたのですが・・・
「由紀さおりの若い頃は?年齢は?国籍は?姉は安田祥子!スキャット?」からの続き
再び低迷?
1969年3月、再デビュー曲「夜明けのスキャット」が、
大ヒットを記録し、一躍人気歌手となられた由紀さおりさんですが、
1969年7月にリリースした、
2ndシングル「天使のスキャット」は、わずか9万枚のセールス。
「天使のスキャット」
そして、その後も、
1969年10月には、3rdシングル「枯葉の街」
1970年2月には、4thシングル「好きよ」
と、シングルをリリースするも、
まったく売れず、再び低迷してしまいます。
「手紙」が大ヒット
そんな時、作曲家のいずみたくさん
(「夜明けのスキャット」ほか由紀さんの曲を作曲)から、
偏向は良くない。一度違う人の曲でいってみたら。
とアドバイスを受けたそうで、
由紀さんは、何人もの作曲家、作詞家をあたり、
1970年7月、「手紙」(なかにしれいさん作詞、川口真さん作曲)
をリリースすると、9月7日付けのオリコンで1位を獲得。
「手紙」
そして、その後も、6週連続トップを走り、
70万枚を売り上げる大ヒットを記録すると、
年末には「第12回日本レコード大賞」の歌唱賞を受賞し、
「第21回NHK紅白歌合戦」にも2年連続の出場を果たされたのでした。
由紀さんは、その当時を振り返り
あの時代、多くのヒット曲が生まれましたが、
1曲で終わるケースが多かった。だから、2曲目が大事なんです。’70年リリースの「手紙」がミリオンセラーになったとき、ようやく、
私は音楽の世界にいてもいいのかなと思えるようになりました。
と、語っておられます。
「8時だョ!全員集合」「ドリフ大爆笑」などバラエティにも出演
その一方で、由紀さんは、
1969~1985年「8時だョ!全員集合」
1978~1983年「ドリフ大爆笑」
では、「ザ・ドリフターズ」のバラエティに、
常連ゲストとして出演され、
「ドリフ大爆笑」より。加藤茶さんと由紀さん。
1995~2004年「コメディーお江戸でござる」
2004~2006年「コメディー道中でござる」
では、準レギュラーとして出演して、
伊東四朗さんと息の合った掛け合いを見せられるほか、
「コメディーお江戸でござる」より。伊東四朗さんと由紀さん。
テレビ番組の司会者、タレント、女優としても活動され、
1983年には、映画「家族ゲーム」で、主人公の愛情深い母親役を演じ、
「日本アカデミー賞助演女優賞」を受賞されるなど、マルチな才能を発揮。
「家族ゲーム」より。戸川純さんと由紀さん。
しかし、それらは、
やっとつかんだ歌手としての居場所を手放したくない。
との、あくまで歌手を続けるためだったそうで、
歌は私の原点です。でも、歌い手が歌うのは当たり前。
テレビでは、ほかのこともやらないと、生き残れない。だから、私は歌手以外の由紀さおりという「人間」を、
見てもらえるようにも努めました。
と、明かされています。
紅白落選を契機に再び姉の安田祥子と
こうした努力もあって、本業の歌手でも、由紀さんは、
「夜明けのスキャット」の大ヒット以来、
10年連続で「NHK紅白歌合戦」に出場されていたのですが、
11年目には、ついに落選。
また、この頃には、シンガーソングライターの台頭が著しく、
歌謡曲は自分で作る人に比べて説得力がないのでは、
と歌謡曲を歌うことへの自信もなくしてしまったのでした。
しかし、ふと、
もう一回、自分の歌探しをしないと、
これから先は人前で歌っていけないな。
と、思いたち、
4年後のデビュー15周年は、
NHKホールで、コンサートをしたい。
との目標を立てられると、
1984年のコンサートの実現に向けて、
資金作りのため、地道なキャバレー巡りを再開。
そして、ついに、
NHKホールを借りる目処がつくのですが、
今度は、
オーケストラを入れて、一人で2時間半も歌えるかしら。
と、突然不安に。
そこで、そのことをお母さんに相談されると、
あなた、お姉ちゃんと一緒にやったらどうなの?
と、お姉さんの安田祥子さんを、
ゲストに招くことを提案されたそうで、
(実は、祥子さんは、オペラの道に進もうとニューヨークに渡るも、
世界のレベルの高さにまるでかなわず帰国。自分の歌探しをされていたのでした)
由紀さんがお姉さんに共演の話をもちかけると、
お姉さんはこの申し出を快諾。
こうしてお二人は、姉妹の原点であった、
「童謡」を歌うこととなったのでした。
「由紀さおりは結婚してる?子供は?病気?トルコ行進曲?童謡コンサート!」に続く