1965年に「新国劇」に入団し、島田正吾さんに師事して、時代劇の舞台に出演されていた、若林豪(わかばやし ごう)さんですが、次第に舞台の人気が廃れ、テレビ&映画に活動の場をシフトされると、1977年には、人気ドラマ「Gメン’75」でメインキャストの立花警部役に抜擢され、たちまちブレイクされます。
年齢は?出身は?身長は?本名は?ハーフ?
若林さんは、1939年9月5日生まれ、
長崎県長崎市のご出身、
身長177センチ、
体重68キロ、
靴のサイズは27センチ、
血液型はA型、
本名は、
森武久明(もりたけ ひさあき)、
学歴は、
専修大学卒業、
趣味は、
植木の剪定、植木観賞、読書、
特技は、
殺陣、剣舞、書道、
ちなみに、若林さんは彫りが深い顔立ちですが、
ハーフではありません。
少年時代~5歳で原爆体験
長崎出身の若林さんは、5歳の時、
実家の納戸の前に立っていたところ、原爆にあったそうで、
爆風で土間まで吹き飛ばされてしまうのですが、
お父さんが覆いかぶさってくれたことで命に別状はなく、
実家が山の裏にあったことも幸いして、
大きな被害は免れられます。
しかし、それから3日後、親戚が住んでいる中心部の浦上地区が、
壊滅状態だということを聞きつけたお父さんとお母さんが、
リヤカーで親戚を迎えに行き、しばらくして帰ってくると、
リヤカーには、真っ黒な丸太ん棒のようなものが2つと、
やけどで顔と全身が真っ赤になった男の子(若林さんのいとこ)が。
実は、真っ黒な丸太ん棒のようなものは、
その男の子の両親で、すでに亡くなっており、
若林さんは、まだ生きていた男の子のやけどで体にはりついた服を、
綿に水をかけながらはがしてあげたり、ハエにたかられないよう、
うちわであおいであげるなどの世話をしてあげたそうですが、
その男の子は、黄色いものを吐き続け、
1週間後には亡くなったそうです。
若い頃は「新国劇」
そんな若林さんは、大学時代、たまたま、
アルバイト先で知り合った「劇団四季」の人に、
俳優になることを勧められ、
1965年に「新国劇」に入団されると(島田正吾さんに師事)、
1966年には「同期の桜」で舞台デビュー、
1968年には「顎十郎捕物帳」の主役でテレビドラマデビューと、
トントン拍子に進まれたのですが・・・
実は、若林さんは、このとき、役のイメージがつかめず、
奈落の底にいるような体験を何度も味わって、
あがくことの繰り返しだったそうで、
1970年に、師匠の島田さんと共演した舞台「人生劇場」では、
大役である「飛車角」役に抜擢されるも、
この芝居の肝であり、
飛車角役の男の悲哀を込めたセリフ、
「男ってのは、顔で笑って腹で泣くんだ」
という表現がうまくできず、
島田さんからは、かつて飛車角役を演じた、
辰巳柳太郎さんと比べられて、何度もダメ出しをされ、
一ヶ月公演の最中でも毎日怒られたそうで、
もう死んでしまおうとさえ思う日々だったそうです。
しかし、その後、ある芝居の最中に、ふと、
役者の成長は1段1段じゃない。
10年、20年上がれずに、ある時10段、20段と上がるもんだ。
それから30年、40年上がれずに終わるかもしれない。僕なんか今、重いまきを背負っていて10cmの階段1つ上がれない。
君は上がれる時には1段でも上に行くんだよ。
と、志村喬さん(「顎十郎捕物帳(1968年)」で共演)に言われたことを
思い出すと、すっと腑に落ちたそうで、
舞台「人生劇場」での苦しい経験も、
ステップアップのための糧となったと思うことができたのだそうです。
「Gメン’75」でブレイク
その後、娯楽や価値観の多様化、テレビの普及などで、
舞台の人気がなくなったことから、
若林さんは、テレビドラマや映画に活動の場を移し、
主に時代劇を中心に出演するようになっていたのですが、
1977年、2度ほどゲスト出演されたことのあった、
人気ドラマ「Gメン’75」で、メインキャストである、
立花警部役に抜擢されると、
「新国劇」で培った、おとこ気あふれる剣劇と、
持ち前のダンディな魅力が、ハードボイルドな、
「Gメン’75」に見事ハマり、たちまちブレイク。
「Gメン’75」より。(左から)宮内洋さん、中島はるみさん、
若林さん、丹波哲郎さん、川津祐介さん、千葉裕さん、伊吹剛さん。
105話から最終話までの、実に355話(5年間)、
レギュラー出演され、番組の顔として、
お茶の間の人気者となられています。
ちなみに、若林さんは、
レギュラーとして初出演した回の撮影では、
妻子を殺されるという設定だったことから、
思わず涙が溢れて、セリフが出てこなくなってしまい、
セリフを言うまでに長い時間がかかったそうですが、
そのシーンは、そのまま使用されたそうです♪
「若林豪の狩矢警部は山村美紗指名!妻は?息子は?娘は?病気だった?」に続く