1969年、「内山田洋とクール・ファイブ」のヴォーカルとして、ファーストシングル「長崎は今日も雨だった」でレコードデビューを果たすと、たちまちヒットを記録し、一躍ブレイクされた、前川清(まえかわ きよし)さん。そんな前川さんのブレイク前を中心に調べてみました。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
前川さんは、1948年8月19日生まれ、
長崎県佐世保市松山町のご出身、
身長177センチ、
体重68キロ、
胸囲96センチ、
胴囲82センチ、
靴のサイズは25.5センチ、
血液型はO型、
学歴は、
長崎南山高等学校中退、
趣味は、
釣り、競馬、ゴルフ、鯉の飼育、水泳、将棋、
ちなみに、
前川清は本名です。
若い頃はグランドキャバレー「銀馬車」で活躍
前川さんは、少年時代、野球が好きだったそうで、
お父さんが、佐世保の米軍基地で船大工として働いていたことから、
米軍基地の日本人職員の子を集めて野球チームを作ったこともあったそうですが、
佐世保基地の兵舎から流れてきたジャズを聴いて衝撃を受け、
中学・高校時代はジャズに熱中すると、将来、歌手になることを夢見て、
1968年には高校を2年で中退し、長崎市内のキャバレーに。
やがて、佐世保のナイトクラブ歌手として頭角をあらわすと、
「内山田洋とクール・ファイブ」のベーシスト、小林正樹さんに誘われて、
「内山田洋とクール・ファイブ」にリード・ヴォーカルとして参加し、
長崎市内のグランドキャバレー「銀馬車」のステージに立つようになります。
(「内山田洋とクール・ファイブ」は、1967年9月に結成され、
「銀馬車」の専属バンドとして活動していました)
デビューシングル「長崎は今日も雨だった」が大ヒット
そして、そんなある日、前川さんらの評判を聞きつけたバンドマスター、
チャーリー石黒さんが、「銀馬車」に生歌&演奏を聴きにきて、
その場でデビューを約束されたそうで、
(チャーリー石黒さんは、森進一さんを見出した人でもあります)
1969年2月、前川さんらは、
「長崎は今日も雨だった」でメジャーデビューされ、
「長崎は今日も雨だった」(右端が前川さん)
TV番組に出演されるほか、
連日、喫茶店やスナックのラジオ・有線から曲が流れると、
前川さんの力強い歌声と、まっすぐに前を見て頭を動かさない、
独特の歌唱スタイルが話題を呼び、たちまち大ヒットを記録。
この年には、早くも「第11回日本レコード大賞新人賞」を受賞するほか、
「第20回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たすなど、
前川さんたちは、たちまちスターダムに駆け上ったのでした。
いやいやの上京だった?
ただ、前川さんによると、佐世保の田舎者だと思っていた自分たちには、
長崎市内トップのグランドキャバレー専属というだけで、
すでに頂点を意味しており、そこでの仕事には満足していたことから、
東京でデビューといわれても、
何それ?儲かるの?
という感じでしかなく、
東京でのデビューはイヤで仕方なかったというのです。
また、もともと、「クール・ファイブ」は、ラテン・ジャズなど、
自分たちの好きな音楽を幅広く演奏していたバンドだったにもかかわらず、
少しはお客さんが喜ぶものを、と社長に言われ、生活のためにやむなく、
歌謡曲のようなものもやり始めた面もあったそうで、
これが上京すると、お給料が半分くらいになると聞かされていたことから、
前川さん以外、妻帯者だったメンバーにとっては死活問題で、
「寝台特急さくら」に乗って門司を出て下関に向かう頃、
宮本君が、もうすっかり暗くなった車窓を見つめて、
「あぁ……九州を出ちゃう。後ろ髪を引かれるね」って言うから、
「引かれる髪なんかないだろ」って笑ったのがすごく印象に残っていて。
まぁ、それくらい、みんな長崎を離れるのは苦痛でした。
と、前川さんは明かされています。
けんか腰のレコーディング
そのような背景で上京した前川さんたちだったので、
ディレクターっていうのが、すごく厳しいやつらしいから、
アタマにきたら殴って長崎に帰ろう
などと、話をしていたほどで、
お昼近くに東京駅で寝台特急を降りると、
その足で一張羅(いっちょうら)の衣装に身を包み、
築地のビクタースタジオには、ヤクザさながらに乗り込んで、
レコーディングはまるで喧嘩腰だったとか。
ちなみに、デビューシングル「長崎は今日も雨だった」のジャケットの、
青と黒のタキシードが、その一張羅だったそうで、
デビューといえど、お金をかけてもらえなかったことが分かります。
極貧共同生活
そんな思いをしてレコーディングを済ませた前川さんたちですが、
すぐにデビューとはならず、上京直後の東京での生活は、
キャバレーの社長が借りてくれた部屋で、メンバー6人と、
身の回りの世話をしてくれる女性1人の共同生活を送ることに。
しかも、二つある部屋のうち、大きい方を、
その女性がひとりでダブルベッドを入れて使い、
もうひとつの小さい方の部屋に、
前川さんら6人が雑魚寝をするという窮屈なものだったそうで、
(後で前川さんが知ったところによると、その女性は社長の愛人だったそうで、
それもそのはず、身の回りの世話など何もしてくれなかったそうです(笑))
実際、「長崎は今日も雨だった」がヒットするまでの3~4ヶ月は、
日々の食べ物にも困るほどの極貧生活で、見るに見かねた同じマンションの奥さんが、
近所の喫茶店で食事をごちそうしてくれたこともあったのだとか。
そして、いよいよ、上京から4ヶ月ほど経った頃、
メジャーデビューし、大ヒットとなるのですが、
それでも、結局、共同生活は1年くらい続いたのだそうです。
「前川清の元妻は藤圭子!馴れ初めと離婚理由は?欽ドン?」に続く