1952年「若き日のあやまち」でヒロインに抜擢され映画デビューされると、以降、バイタリティあふれる演技で多くの人を魅了し続けた、昭和の名女優、左幸子(ひだり さちこ)さん。1963年に主演を務められた映画「にっぽん昆虫記」では、日本人で初の「ベルリン国際映画祭女優賞」に輝かれました。
年齢は?出身は?本名は?妹は?
左さんは、1930年6月29日生まれ、
富山県下新川郡朝日町のご出身、
本名は、
額村幸子(ぬかむら さちこ)、
学歴は、
東京女子体育専門学校(現・東京女子体育大学)卒業、
ちなみに、左さんは、三男五女の長女として誕生しているのですが、
末の妹には、女優の左時枝さんがいらっしゃいます。
若い頃は?
左さんは、1947年、東京女子体育専門学校(現・東京女子体育大学)に入学すると、実技や学問の習得に務めるかたわら、演技の勉強に励まれていたそうで、
1950年に同校卒業後は、都立第五商業高校の保健体育・音楽の教師となられるのですが、その一方で、「俳優座」の委託生となり、1951年には、雑誌「家庭よみうり」創刊号でカバーガールを務めることに。
写真は「週刊娯楽よみうり」(昭和31年8月17日号)
そして、「俳優座」の卒業公演に出演された際、「新東宝」の野村浩将監督に見出され、1952年「若き日のあやまち」のヒロイン、吉岡麻子役で映画デビューされると、
「若き日のあやまち」より。左さん(左)と相馬千恵子さん。
(「家庭よみうり」のカバーガールで野村監督に見初められたという説も)
このことがきっかけとなって、「新東宝」の専属となり、その後も、
1952年「アチャコ青春手帳・大阪篇」(野村監督)
1953年「アチャコ青春手帳第三話 まごころ先生の巻」(野村監督)
「サラリーマン喧嘩三代記」(井上梅次監督)
「思春の泉」
「思春の泉」より。左さんと宇津井健さん。
1954年「大阪の宿」
「鶏はふたたび鳴く」
「億万長者」
「億万長者」より。
と、立て続けに映画に出演。
また、1954年には、映画制作を再開したばかりの「日活」に移籍し、同年、社会派映画「黒い潮」(山村聡監督)に重要な役どころで出演されたのでした。
(戦後、映画興行から映画制作を考えていた「日活」が、各映画会社から監督や俳優を引き抜こうとしたことから、1953年には、他の映画会社5社が申し合わせて「五社協定」を結び、「日活」は映画制作の中断を余儀なくされていましたが、1954年には映画制作を再開しています)
「にっぽん昆虫記」で日本人初の「ベルリン国際映画祭女優賞」受賞
「日活」に移籍されてからも、左さんの活躍は目覚ましく、
1955年「女中ッ子」では、雇われ先のひねくれた息子と心を通わせる、
秋田出身の純朴な女中役を好演し、「毎日映画コンクール女優助演賞」を受賞。
「女中ッ子」
翌年の1956年「神阪四郎の犯罪」では、不倫相手(森繁久彌さん)に心中を強要し、薬入りのウィスキーを飲ませた挙げ句、自殺する、結核を患う狂気のヒロインを演じ、「コーク国際映画祭主演女優賞」を受賞。
1957年「幕末太陽傳」では、ヒロインで売れっ子の遊女、お染め役を演じられると、ライバルの遊女(南田洋子さん)と、女同士のプライドをかけた取っ組み合いのシーンで、迫真の演技を披露し、大きな話題に。
「幕末太陽傳」より。
(左から)南田洋子さん、フランキー堺さん、左さん。
1958年には「大映」に移籍し、全国の農村婦人のカンパによって、資金がまかなわれた「荷車の歌」(1959年)に出演されるなど、独立プロの作品に積極的に参加されるようになるのですが、
それでも、左さんの勢いはとどまるどころか、
1963年には、今村昌平監督「にっぽん昆虫記」で、貧しい農村で職業を転々としながら、売春宿の女中からコールガール組織のマダムとなる、昆虫のような生命力を持つ女性を、すさまじく、したたかに演じられると、「キネマ旬報賞」「ブルーリボン賞」「毎日映画コンクール主演女優賞」など数々の映画賞を独占。
翌年の1964年には、「彼女と彼」(1963年)とともに「ベルリン国際映画祭」に出品されると、日本人で初めて「ベルリン国際映画祭女優賞」を獲得する快挙。
「彼女と彼」より。岡田英次さんと左さん。
1965年「飢餓海峡」では、愛する人のツメを切って持ち歩き、うっとりと眺めるような、一途で純粋な娼妓・杉戸八重役を演じて、「毎日映画コンクール女優主演賞」を受賞。
「飢餓海峡」より。左さんと三國連太郎さん。
また、1977年「遠い一本の道」では、自らメガホンを持って、高度経済成長の波に翻弄される主人公の国鉄職員を演じ、高い評価を得たのでした。
不屈の女優魂
こうして、数多くの作品に出演された左さんですが、「新東宝」「日活」「大映」と、いずれも短期間所属されたことがあるものの、当時定められていた「五社協定」をもろともせずに、1962年からはフリーで活動され、
(当時の映画俳優はどこかの映画会社に所属していることが多く、「五社協定」により、自由に他社の良い作品に出演することが禁じられていました)
映画会社にスターとして売り出してもらうより、良い作品に出演することにこだわり続けられていたようで、そのこだわりは、自身が演じる役柄の解釈や演出について、自分の意見を主張し、納得するまで議論されるほどだったとか。
実際、「遠い一本の道」で監督・主演を務められたのも、「男女差別をなくしたい」との主張があったからだと言われており、とてつもなくバイタリティに溢れた、強い信念の持ち主だったようです。