ファーストアルバム「新宿の女」、セカンドアルバム「女のブルース」が次々と大ヒットを飛ばし、デビュー後いきなりブレイクされた、藤圭子(ふじ けいこ)さん。そんな藤さんの生い立ちや結婚について調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

藤さんは、1951年7月5日生まれ、
岩手県一関市のご出身(北海道旭川市育ち)、

身長155センチ、

学歴は、
大有小学校
⇒岩見沢市立栄中学校(1983年閉校)卒業

趣味は、
麻雀、競馬ほかギャンブル、

ちなみに、本名は宇多田純子(うただ じゅんこ)です。
(旧姓・出生名:阿部純子)

過酷な生い立ち

藤さんのお父さんは浪曲師の阿部壮(あべ つよし)さん、お母さんは三味線奏者の竹山澄子さんで、ご両親は自宅のあった北海道や東北を中心に旅回り(いわゆるドサ周り)をして、お祭りや炭鉱、寺の本堂、旧家の大広間などで歌を歌って生計を立てられていたのですが、

生活は苦しく、藤さんも10歳になると、家計を支えるために両親と旅回りをして歌うようになったそうです。


幼少期の藤さん。

(マイナス20度の中を、車も使わず膝まで雪に埋もれながら何時間も歩き、泊まる宿がない時には、町外れのお堂の中で眠るという、過酷な旅だったそうです。)

そのため、藤さんは、中学では勉強好きで成績も優秀だったのですが、貧しい生活を支えるため、中学卒業後は、高校進学を断念し、歌一本でやっていくことを決意されると、

15歳の時には、岩見沢で行われた「雪祭り歌謡大会」で、作曲家の八洲秀章さんの目に留まり、スカウトされ上京されたのでした。

アルバム「新宿の女」「女のブルース」が大ヒット

しかし、八洲さんのレッスンを受けながら、いくつかのレコード会社のオーディションを受けられるも、すべて落選。

そんな中、藤さんは、作詞家の石坂まさをさんと知り合われて、石坂さんの自宅に住み込みでレッスンを受けるようになり、1969年9月25日、「新宿の女」で念願のデビューを果たすと・・・

同年リリースしたファーストアルバム「新宿の女」が大ヒットを記録。(20週連続1位)


新宿の女

翌年1970年にリリースした、セカンドアルバム「女のブルース」も17週連続1位という大ヒットとなり、なんと、ファースト、セカンドアルバムを合わせ、計37週連続1位という空前絶後の記録を打ち立てられるほか、


女のブルース

シングル「女のブルース」も8週連続1位、「圭子の夢は夜ひらく」も10週連1位とヒットを連発し、藤さんは、たちまち人気歌手としての地位を確立されたのでした。

元夫は前川清~馴れ初めは?

こうして、瞬く間に人気歌手に登り詰めた藤さんですが、人気絶頂の1971年には、歌手の前川清さんと結婚されています。

というのも、前川さんは、当時、「内山田洋とクール・ファイブ」のヴォーカルで、藤さんと同じレコード会社に所属されており、1969年10月、芸能人野球大会に出場した「内山田洋とクール・ファイブ」の応援に、新人だった藤さんが駆り出されたことで、知り合われたそうで、

この時はまだ、会話を交わすこともなく、顔見知り程度だったそうですが、前川さんが藤さんに好意を持ち、1970年1月の橋幸夫ショー」で前座を務めた藤さんに花輪を贈られると、

藤さんの師匠である石坂さんが心配して、

未成年の女の子に花輪を届ける本心を聞かせてくれ

と、前川さんに問い詰めるのですが、

前川さんが、

以前、ぼくが前歌を担当した際、花輪がなく寂しい思いをしました。藤さんもきっと同じだろうと思って。

と答えられたことに感激され、以来、石坂さんは前川さんを自宅に招待するようになり、当時、石坂さんの自宅に寄宿していた藤さんと前川さんは、何度も顔を合わすうちに仲良くなったそうです。


藤さんと前川清さん。

ただ、藤さんは、もともと師匠である石坂さんに恋心を抱いていたようで、

結婚したい

と、周囲にもらしていたそうですが、石坂さんとしては、そんな弟子の恋心を知っていても、それに応える訳にはいかず、藤さんに好意を寄せていた前川さんを紹介されたのでした。

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前川清と離婚

そのため、結婚生活は前川さんの一方通行だったようで、前川さんが仕事から帰って来ても、藤さんはペットのニシキゴイと話すばかりで、まるで前川さんを相手にせず・・・

また、お互い多忙な中、ようやく2人が一緒に過ごせる時間が持てても、藤さんは上の空で、

極めつけは、子どもがほしい前川さんに対し、子どもがほしくない藤さんが、体の関係を拒み続けていたようで、お二人は、結婚からたった1年で離婚されたのでした。

「藤圭子の娘は宇多田ヒカル!結婚歴7回?5000万持ち歩き?」に続く

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