著書「西の窓辺へお行きなさい「折り返す」という技術」で、12歳年上のお兄さんとの最悪だった関係を明かされた、武田鉄矢(たけだ てつや)さんですが、実は、お父さんとも悲しい関係にありました。
「武田鉄矢が著書で兄との最悪だった関係を明かす!」からの続き
戦争で負けた父親を軽蔑
お兄さんとは、12歳も年が離れていたこともあり、他人のような存在で、尊敬語を使っていた武田さんですが、そのお兄さんとお父さんはとても仲が悪く、よく取っ組み合いのケンカをしていたそうで、武田さんは、そのお兄さんもお父さんもどちらも嫌いだったそうです。
(そんな二人の間に挟まれたお母さんがかわいそうだと思われたことがきっかけで、「母に捧げるバラード」は作られたそうです)
ただ、1983年にお父さんが亡くなり、自身も老いてきた今、お父さんに謝りたいと思うようになったというのです。
というのも、今になって思えば、お父さん(ら団塊の世代)は、大日本帝国のため戦争で尽くしたのに、ボロボロに負けて帰ってきた日本は、焼け野原とたくさんの死者ばかり。
そんな中、何の保証もなく、国からは復興だと言われて鉄工所で働かされ、家ではアメリカのテレビドラマに夢中の長男や次男から小馬鹿にされる。
身の置き場がなくて辛かったお父さんが、お酒を飲んでは、よく暴れていた気持ちが、少しは理解できるようになったというのです。
実際、武田さんたちの世代は、
父親たち世代が、日本をこんなに目に遭わせた
と、先生が平気で言い放つような教育(民主主義)を受けており、
そのため、武田さんたちの世代は、戦争で負けた父親を憎悪し、「民主的親子関係」(つまり、アメリカ人のように、父親ではなく、友達のような親子関係)を作ろうと父親を追放した世代でもあったのでした。
父親が大嫌いだった
そんなお父さんは、ホステスさんが看護婦の格好をして部下のふりをしてくれる、「軍国酒場」ということろで、
武田上等兵、しっかりしてください
と、言ってくれることがうれしくて、1年に何回か通っていたそうですが、
武田さんは、そんなところに大金を使うお父さんをますます軽蔑していたそうです。
そして、ある時、昔の軍隊の同窓会に出席したお父さんが、連隊長から、
武田、きさまの息子は芸能界で活躍している鉄矢くんか
と、聞かれ、
そうであります
と、答えると、
よか息子生んだやないか
と、言われたそうで、
それがうれしくて、家に帰って武田さんに、
連隊長が褒めてたぞおまえのこと
と、言って泣いていたそうですが、
武田さんは、連隊長から褒められたことを喜ぶお父さんが、これまた大嫌いだったのだそうです。
ただ、それも今になって思えば、お父さんの居場所は「軍国酒場」にしかなかったのではないか、連隊長から褒められたことをなんで一緒に笑ってやらなかったのかと、後悔されているそうで、
これからますます老いて行く自分は、この罪の意識をずっと感じながら生きていくんだろうな、と思うようになっているのだそうです。
父親とは楽しい思い出も
そんな武田さんは、お父さんの記憶といえば、お酒を飲んで暴れていたことばかりだったそうですが、それでも、最近は、わずかながら、お父さんと過ごした楽しかった想い出も思い出すそうです。
武田さんがまだ4歳くらいだった時、生まれて初めて海を見に連れて行ってくれたのは、お父さんだったそうで、
(そこは、志賀島というところで、お父さんと二人で眺めた海岸は今でもちゃんとあるそうです)
初めて海を見た、幼い武田さんは、
なんてとこだ
と、そのあまりの広さに驚かれたそうです。
その後、成長した武田さんは、上京を決心した時、ものすごい形相で、
お前、家出を計画しとらんか?
と、お父さんから疑われたこともあり、ますますお父さんが嫌いな時期が長らく続いたそうですが、
その後、「幸福の黄色いハンカチ」が大ヒットした時には、ガンの兆候があったお父さんが気弱に、
鉄矢、もうリクエストカードは書かんでよかろう?父ちゃんキツか・・
と、武田さんの前にハガキを一枚、ぽん、と置いたそうで、
その時、武田さんは初めて、お父さんが、武田さんの唄が売れるようにと、お母さんからのノルマで、50枚もリクエストハガキを書いていたことを知ったのでした。
すでに70代と、自身も年老いてきた武田さんですが、最近、お父さんを思い出すときには、悪いお父さんの思い出だけでなく、悲しげなお父さんの思い出、やさしいお父さんの思い出も、一緒に思い出すようにしているそうで、そう思い返す時、心がとても静かになるのだそうです。
母・イクさんと父・武田嘉元さんの結婚記念写真。